今日のうたたねと、「母は引き取れません、お金も出せません」老親を病院に棄てる人々の言い分と、【究極的には、ヒンシェルウッドはクライン派の乳児は妄想・分裂ポジションに関連して莫大な不安を抱えていることを確信し、エイブラハムはウィニコット派の乳児を2つ(最初から充分によい母親の腕に抱かれているために「想像を絶する不安」を経験していない乳児と、ほどほどによい母親を持たない乳児)に分けて定義しています。】
午前中は、外で過ごしました!
夕食後はいつもの、うたたねでした(笑)!今日も一日笑顔で終われたこと、皆様に感謝です!
下記は、この状況下炙り出されただけのように感じますが........。手の倫理に書いてある、道徳と倫理を間違えて理解されている方が多いのに気づかされますね........。
「命は有限」理解しない人々に責められて
疲れて果てた医療現場
信じられないことに病気が治った親の引き取りを拒否するといったケースが少なくないのだ。しかも、こんなふうにモンスタークレーマーのような物言いをすることもある。
「あんなに元気だった母が車椅子なんて……。これは医療ミスでは?」
「こんな結果なら治療してほしくなかったよ」
命を救った医療関係者の気持ちを無碍にするセリフを吐くだけでなく、その後は、電話に出なくなることも非常に多い。そういう事例が決して稀ではないのだ。
困り果てた病院関係者は、本来、そんな作業をする必要はないのだが、預かってくれる施設を探す羽目になる。しかしただでさえ介護施設は不足しており、元コロナ患者を受け入れてくれるところを探すなんて「砂場で砂金を探す」レベルだ。
12月頭に看護師の集団辞職が報道された大阪市内の病院は、ECMO(体外式膜型人工肺)が整備されているような最重症例を扱う高度医療機関ではなく、主に軽~中症例を扱っていた。ある県の感染症アドバイザーを務める医大教授は12月3日のNHKニュース内で「最終目標は亡くなる人をゼロにすることで、そのためにも感染者数を最小限にするんだと肝に命じてほしい」と人材不足の現場にあえて檄を飛ばしていた。
コロナ患者が死亡すると、こうした権威のある医者に叱られ、生きて退院させようとすると「元の(元気な)状態じゃない!」と家族にイヤミを言われ……現場の医療関係者は「人が老いることも命が有限であることもわかろうとしない」人々に責められて、すっかり疲れてしまったのだろうと推測している。
クラインとウィニコットの違いを的確に記述してくれているので、対象関係論をきちんと復習できそうです!教科書も何冊かまとめて(笑)、自分の仕事の為にも何冊か同時に読ませて頂いていますので(笑)、頭の中が忙しい(統合失調症の方の頭の中がそうだと誰かが言っていましたね)です。赤い靴を履いた女の子のように、動き続けている感覚でしょうか?
〜ヒンシェルウッドが乳幼児は生来の攻撃性との壮絶な苦闘を経験しているというクラインの見解に焦点を置いているのに対し、エイブラハムはウィニコットのいう支持的で促進的な環境の意義について強調しています。
この対話から分かるのは、両者が与する数々の考え方を相手に伝える時に直面する困難です。
究極的には、ヒンシェルウッドはクライン派の乳児は妄想・分裂ポジションに関連して莫大な不安を抱えていることを確信し、エイブラハムはウィニコット派の乳児を2つ(最初から充分によい母親の腕に抱かれているために「想像を絶する不安」を経験していない乳児と、ほどほどによい母親を持たない乳児)に分けて定義しています。
この二人目のウィニコット派の乳児は怯えていて、ウィニコットでいうところの「原初的苦悩」の状態であり、これは「永遠に落ち続ける」という意味でクライン派の乳児と似ています。〜