うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

最近のうたたねと、会食の時は注意をお願いします!と、常同行動的な遊びにおける予持

 

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  9月になりましたので、再開させて頂きます。うたたね向いの、ちゃんぽん屋さんの夜の光景が、絵になりそうなので写しました。

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 まだ自粛生活は続いていますが、皆さんすろーじゃむの湯に行かれたり、散歩されたり、音楽を楽しまれたり、あっという間に夕方になります。

 

 下記は先日見たものです。中々収まらないですね!



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野中郁次郎先生と山口一郎先生の本にはなかった、視線触発という概念が出ていました。フッサールを補っているようにも感じました。視線触発を現象学に入れ込むために、自閉症児の感覚を参考に書かれているようにもとれましたが、逆にそれなくして自閉症児を語れないのかな?とも思いました。哲学自体が、その議論を未来に繋げていくためのものなら、急いで結論を出す必要もなく、自分にとって始めての事例なんか、毎日のように出て来るので、柔軟に対処して行くことが出来ると考えるだけでも、気持ちが楽になりました。

  
第3章 流れない時間
2 未来
自閉症児の常同行動的における予持
 常同行動的な遊びにおける予持
 同行動における予持の内容について考えてみよう。定型発達においては、次の瞬間に到来するものは完全には規定されない。予持は、来たるべき印象について、ある程度幅のある可能性の地平を持っている。次に鳴る音はドかもしれないし、ソかもしれない。
 を持つ」というのは、予持自体は空虚表象にすぎない、すなわち感性的には充実されていない「ある程度の範囲の音の可能性」という枠に過ぎず、実際に到来して充実する未来の印象については幅を許容するということである。こうして、定型発達は知覚における変化を許容する。
 自閉症児の常同行動においては、未来の出来事は固定していて幅を持っていない。次の瞬間にもまた同じ行動が繰り返され、同じ感覚が繰り返される。同じ行為を続けているのだから、予持においてはすでに把持された内容だけを待っている。
 持の地平の狭さは、行動の反復という契機と連関する。反復は、予持と把持のあいだの、内容的な差異の不在あるいは最小限の差異を意味している。
 一般に、来たるべき印象は過ぎ去った印象とのアナロジーで決まる、すなわち予持は把持とのアナロジーで決められる(と少なくともフッサールは考えていた)。とすると、把持と原印象のあいだに内容上の差異・変化があればあるほど、何が実際につぎの瞬間に来るかが読めなくなるので、予持の地平の幅が拡がる。
 に原印象と把持の内容の差異がないところでは、予持の地平はぎりぎりまで狭くなる。実は予持を把持からのアナロジーで考え、感性の時間意識以外の時間を考慮しなかったフッサールの時間論の極限形が、自閉症の常同行動における時間意識であると言えよう。他の時間構造を捨象した結果、自閉症児の体験の記述に似ることになったのである。