うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

昨日のうたたねと、アメリカの博物館、3分の1が再開不可能か。財源の枯渇が課題と、ワインスタイン次期駐日米大使の指名承認公聴会 「日本により大きな責任を求める」と、【「フロー」から「ストック」へ】

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 ブドウの葉の勢いも弱くなり、実もしっかりしてきました。

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 昨日アップする予定が、夜に色々あり(笑)、気力がなくなり(笑)寝てしまいました。昨日もすろーじゃむの湯に行きました!たくちゃんがなんか、カッコよかったので、思わずシャッターを切ってしまいました!

 夕方は、ギターを沢山弾いて、りえさんも満足!してくれました。

コロナに負けずに、今のところは皆さん元気!です!

 

  下記は大変なニュースですね!一刻も早く収束を願います.....。

 上記ののようなニュースを見るたびに、下記のようなニュースが増えるのかも知れませんね.......。フリードマン的な経済学者が、今の日本ならこれくらいは出せる!と、難しい式を駆使して、自己中的な数字をはじき出しているかも知れませんね.........。取り合えず、各国が最善策を持ち寄ってコロナに対して闘わなければいけない局面と思われますが、何かあったときにこそ、その人の人格が出ると言うのを、世界的にこれほどまでに見たことはないのではないでしょうか?

 ロボトミーノーベル賞をもらったように、ベトコン一人当たり殺すのにいくらかかるか?計算した経済学者もノーベル賞もらってますよね?そう思うとノーベル賞なんてどうでもいいやんか!と思うし、ボブ・ディランは蹴っ飛ばして欲しかったな〜と思うのは、自分だけでしょうか?


 

 ちょうど、資本主義と闘った男を読み終えたところでしたので、前回の続きの佐伯先生の社会共通資本というのは府に落ちるが、宇沢先生が全く出てこないのは、府に落ちませんでした。でも、勉強になりました!

2,「フロー」から「ストック」へ

 れほど豊かになっても、なぜ、われわれはかくも成長に囚われるのだろうか。それ自体がひとつの奇怪な心理的事実であり、精神分析上、あるいは社会心理学上の興味深い事実だと思うが、まず、きわめて単純な誤解があることに注意しておきたい。

 ばしば、脱成長というと次のような批判がなされる。「経済成長できなければ、日本は貧しくなる。それでいいのか」というものである。もちろん、これが単純な誤解であることはいうまでもない。経済成長はあくまでもGDPの増加率であり、GDPとは1年間にあらだに生産され市場を通して売られた生産物の価値である。だから、経済成長率が10%だということは、GDPの増加率が10%ということである。たとえば、日本経済のGDPが500兆円だとすれば、成長率が10%なら、来年のGDPは550兆円となり、再来年はまたその10%増えて605兆円になる。一方、ゼロ成長だとすれば、毎年GDPは500兆円である。

 れは何を意味するのか。GDPとは、あくまで1年間に生産・消費された付加価値であった。つまり、今年度に新たに付加された価値である。ゼロ成長では、今年度の新たな付加価値は500兆円であり、来年度もまた500兆円が付加される。毎年付加されるGDPが増加するのがプラス成長であり、その付加分が増加しないのがゼロ成長だ。つまり、成長率が問題としているのは、「付加分」の増加であって、国全体に蓄積された富ではない

ロ成長でも「付加分」が毎年同額だけ生み出されているのである。したがって、ゼロ成長でも決して貧しくなるわけではない。毎年、同額の「付加」が生み出されるのであり、それは、われわれの生活の中に蓄積されてゆくのである。

 うだとすれば、「経済成長しなければ、日本は貧しくなる」という論の誤りは明白であろう。「付加される富」と「蓄積された富」を混同しているのである。「付加された富」は「フロー」であり、「蓄積された富」は「ストック」であるGDPはあくまでフローに関わる。フローが毎年大きくなればプラス成長であり、フローが毎年同じであればゼロ成長である。しかし、ゼロ成長であっても、フローの一部がストックとなって社会に蓄積されてゆくことに変わりはない。

とえば、仮にGDP500兆円のうちの300兆円がその1年で消費されてしまい、100兆円が従来のストックの補てんに使われたとしても、それでも100兆円は新たなストックとして付加されることになる。だから、「豊かさ」をストックの次元で理解すれば、ゼロ成長でも「豊かになる」ことになる。

 ころが、GDPは数字で測定できるのに対して、すでに蓄積されたストックの価値は測定できない。その結果、GDPの成長率のみが関心の的になってしまい、蓄積されたストックは問題とならないのである。

 か、本当に大事なのは毎年のフローなのか、それとも蓄積されたストックなのであろうか。われわれが多くの場合に生活のなかで「豊かさ」の実感をもつのはストックであろう。

たとえば、住宅や近隣の環境、自然環境、病院や学校などの公共施設、都市そのものやオフィスビル、公園や街路、街の景観、文化的施設など、すべてストックである。われわれは生活のなかで「豊かさ」を問題とするのは、多くの場合、これらの「社会共通資本」なのである。そして、GDPの成長率は、社会共通資本については何も述べない。

ころが、90年代のグローバル経済の市場競争主義においてもっぱら強調されたのは、あくまで「フロー」としてのGDPの増加であって、「ストック」としての社会共通資本はむしろ「非効率」とみなされて非難の対象となったのだった。これに対して、低成長時代とは、市場競争ではなく、むしろ「ストック」としての社会共通資本へと関心を向けるべき時代であろう。