今日もすろーじゃむの湯に行きましたが、皆さん何かに興味を持っておられるのを見に行ったら、犬の赤ちゃんがいました!かわいかったです!
しばし眺めてから、入浴しました!暑かったので、少し低めの温度に調整して、あまり汗をかかないようにしました。
コロナ禍では、グローバル化の反省もありましたが、それを逆手に取って、世界に進出ですか........。今の自分には無理ですね.......。これくらいの気概がなければ、このコロナ禍では、生きて行けないのでしょうね。
流れを経営するは、自分には難しすぎるなと(笑)、こちらを読んでからまた、読み直させていただきます。それでも無理なら、ドラッガーに走ります!
下記を読んでいると、精神分析と(特にウイニコットとかビオンとかと)現象学がどう違うのだろうと、余計に悩み始めてしまいました(笑)。でも、読みやすいので取り敢えずこちらから入ります。雪舟は難しいので雪村からというような感じでしょうか?
『直観の経営』
「共感の哲学」で読み解く動態経営論
野中郁次郎・山口一郎
対談・経営学を「カッコ」に入れよ
人間の本能の世界に遡る哲学
〜山口 意味づけと価値づけについてもう少しだけ、補足しておきましょう。
野中さんがいわれたとおり、アートとサイエンスを担っているのが人間です。それは「知性」と「感性」、「客観」と「主観」という言い換えも可能でしょう。
現象学がユニークなところは、この「客観」と「主観」、アートとサイエンスに分かれる以前に、人はどんな世界を生きているのか、ということを徹底的に考え抜いたところです。
たとえば、赤ちゃんとその母親という母子がいるとします。赤ちゃんがおもちゃではなく、その横にあったぬいぐるみがほしかったとき、母親がそのぬいぐるみを手渡してあげれば、それを手にした赤ちゃんは喜びます。もしおもちゃを手渡せば、はっきり不満足な表情を見せるでしょう。
つまり、とってほしいものが「おもちゃか、それともぬいぐるみか」というその「客観的な物の同一性」が、赤ちゃんの感情表現を通して、母子間で確かめ合っているのです。
また、生後四ヵ月ころまでの赤ちゃんは、自らの身体内部で受ける感覚と外部からくる感覚の区別がつかないといわれています。だから他の赤ちゃんが泣いていると、自分が泣いていると感じて「伝染泣き」が起こったりするわけです。
しかしこの伝染泣きの時期に、つまり世界が「主観」と「客観」とに分岐する以前にもう、母親は泣きはじめた赤ちゃんをあやし、赤ちゃんもそれに応じるという母子間の情動的応答がすでに成立し、そこでおもちゃやぬいぐるみなどの物を手渡すことを通して情動が確かめられ合うなかで、「客観的な事物の世界」が二人のあいだにでき上がってくるのです。
この「確かさ」ほど、確かなものはありません。そして、この「確かさ」が行き交うなかで初めて、赤ちゃんには自らにとっての世界の成り立ちを理解していきます。
物が仲介するなかででき上がってくる、自然科学以前の客観的な世界の成り立ち。これを現象学の創始者であるフッサールは、「相互主観性」という概念で確定したのです。〜