難しい賃借対照表の講義を受け、疲れましたが、書類の印刷等で現場に行き、元気を頂いて帰宅してきました。
講義が終わって事務所に行こうとしたら、大家さんのねこさんたちが(笑)。
もともとここが彼女たちの家でした(笑)。ひーひー王子が亡くなって久しいですが、簡単に環境って変わるものですね。
7月の末に、相模原まで本当に行けるのでしょうか?毎日ニュースを見て心配しています。大学院の皆さんの大半は、神奈川や東京の方たちなので、もう少しお互いに踏ん張らないといけないかもしれませんね.......。
1年位前にアップしたかも知れませんが、今日も皆藤先生の、深くて重い言葉で休ませて頂きます。明日は早番でした!宿題が思いのほか難しくて苦戦していました.....。
第8章 考える葦
7 考察
●母親面接の意義
~一般に、親や教師や医者は、思春期の子どもの行動ねなたいして安全策をとろうとすることが非常に多い。
そうした姿勢は、子どもにとっては大人への不信感を強くすることにつながる。たしかに、子どもの自主性を尊重することは多くの危険を伴う。
樹の場合、その危険は死と直結するものであった。しかし、そうした危険を覚悟をもって引き受ける大人が、現代を生きる子どもには必要ではないか。それはまた、葛藤を抱える大人の姿勢でもある。
そ うした危険を引き受けることもなく子どもの行動を安易に制限・禁止することは、こころのエネルギーをさほど必要としない、たやすいことである。しかし、そこから生まれるのは、安全を代償にした子どもの大人にたいする不信感ではなかろうか。
思春期を生きるというのは、子どもにとって容易なことではない。実に大きなこころのエネルギーを必要とすることなのである。
それを受け止めるには、大人の側にも相応のこころのエネルギーが必要となる。誤解のないように付言しておくが、筆者は子どもの自主性に任せればよいと主張しているのではない。
それは、制限・禁止と同様に、こころのエネルギーをさほど必要としない。いわば放任につながる。
大切なことは、危険性に配慮しながら子どもの自主性を見守ることであると言いたいのである。そこに、こころのエネルギーが必要となる。
そのようなとき、大人も子どもも「責任」ということの重さを知る。そして葛藤を抱えることになる。このような関係をとおして「いかに生きるのか」というテーマへの取り組みが可能になると筆者は考えている。~