うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

アベノマスクと、「雑草と日本文化」と、【 その意味が絶対であるとすると、社会が主体として善・悪を規定することになり、主体的人間は消滅し、生きている実感が失われる。】と、ネガティブ・ケイパビリティ

 

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  届いたマスクに自分の作品につけているものを刷ってみました(笑)。これならしたくなってきました!

 

 

 下記は、。大学院の調べ物をしていた時に見つけたものです。一部引用させて頂きました。下記が中心の文章ではありませんが、自分もそう思います。

 「あなたは、雑草のような人ですね」と言われると、どこか褒められたような気がします。もちろん、嫌な思いをする人もいるでしょうが、「あなたは、温室育ちの人ですね」と言われることと比べるとどうでしょう。温室育ちの作物は、とても良い環境で大切に育てられたエリートの植物です。しかし、日本人はエリートであるよりも、雑草であることを好むのです。

 

 物事には良い部分と悪い部分がある、それが日本の自然観です。
欧米の人たちは、善悪を明確にする傾向にありますが、日本人はあいまいであると言われます。しかし、日本人のあいまいさは、日本の自然の豊かさが関係しているのかも知れません。
そして、世界の国々と比べてもやっかいな雑草の中に「雑草魂」を見出したのです。


 「いかに生きるか」が、この本の言わんとするところですが、ここまで掘り下げて考えておられるのかと想像するだけでも、自分に負けそうになります......。ネガティブ・ケイパビリティ発動でしょうか(笑)

3 多様性を生きる社会
⚫主体の復権
 ~田は、デリダを論じるなかで、「言葉はもはや、特定の人間の特定の感情の再現(=現前)であることをやめて、誰もが発し得る一般的な言語記号の配列としてしか存在し得ない」と述べている

  のことは、素朴に言って、現代人は道徳的・倫理的価値観では生きているという実感を相対的にしか体験し得ないということを意味しているように思われる。

  西は、「あらかじめ〈真なるもの〉や〈客観的事実〉があるわけではない。真理を得たという確信をひとは抱くだけなのだ」と述べ、その「確信」が生きている実感であると指摘するが、筆者もまったく同感である。
 間は、社会の秩序を築くために現象を区別し、そこに善・悪の意味を付与してきたのである。

  の意味が絶対であるとすると、社会が主体として善・悪を規定することになり、主体的人間は消滅し、生きている実感が失われる。