うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

牡丹の花と、うたたねの花と、橋下徹氏が大阪府・吉村知事を絶賛「素晴らしい!」保護者感染時に児童相談所による子ども一時保護の方針にと、"アベノマスク" 「1円も無駄にしないで」不要な人は寄付を…回収ポスト設置 必要な人に再配布運動と、【この意味で、自己愛的なありようとは、他者から疎外されて、その疎外感に耐えかねて、自己から乖離して、その関係を見ている主体と言える。】

f:id:ka-gu:20200427185654j:plain

 今朝、出勤しようと外に出たら、牡丹の花が咲いていました!いい香りを流しながら。

f:id:ka-gu:20200427100549j:plain

 牡丹の花に見とれていたら、うたたねでもきれいな花が咲いていますと、夜勤明けの主任さんが写メを送ってくれました!

f:id:ka-gu:20200427135756j:plainf:id:ka-gu:20200427135723j:plain

 

f:id:ka-gu:20200427135802j:plainf:id:ka-gu:20200427135807j:plain

 今日は、日勤でしたが、ほぼ現場に入ることなく、午前も午後も通院介助でした。

COVID19の下、重度の方は、職員が状況を医師にきちんと話して、多めに処方していただき、長居することなく戻り、戻るたびにシャワーを浴びて、着替えてまた病院へ.......。福祉の現場も大変ですが、医療の現場は想像を絶するくらい大変そうです。きれいにしてから、薬局で薬を頂き、やっと現場に入ることができました。受診記録を2枚と詳細を引き継ぎに記入したらもう帰宅時間に......。少し手伝ってから帰宅しました。明日は遅番なので、早めに寝て、早起きして水曜日の講義の準備をします(笑)。講師陣が凄い方ばかりで、マジで取り組まないとヤバいです..........。精神分析の本を、経営の本に代えて、ネットでカタカナの初めて見た言葉を調べまくっていますが、直ぐには見つからなかったり、はっきりした概念がまだ日本語に置き換えられてなかったり......。苦戦しています。
 

 

 下記の二つは、昨夜見た記事です。色々賛否両論はありますが、初めて経験することは失敗がつきものです。重大な判断を直ぐに下せるというのは、なかなか出来ることではありません。批判だけなら誰でも出来ますが、批判するなら、対案とセットだよな!と、毎日、執拗に出てくる絶望感と闘いながらも、そう言っている自分がまだいることに安堵する毎日です..........。

 ステイホームで余計に虐待が露出されてしまっているので、そちらの対策も大変ですが、お願いたします。

 このアイディアは、本当にいいですね!利用者さんと職員さんを守らせて頂く為に、ネットでマスク等、購入させて頂いていますが、今のところ遅延はあっても、届いていますが、月末にまとめてくるというマスクは本当に来るのか?心配になってきました。シャープのマスクもまた、サイトがパンクしてました........。


 今回も東畑先生からの引用です。

の意味で、自己愛的なありようとは、他者から疎外されて、その疎外感に耐えかねて、自己から乖離して、その関係を見ている主体と言える』。は、現場で、利用者さんも、支援者もお互いがお互いの関係を作ることを諦めてしまった状態になった時に、出てくる主体なのでしょうか?先日の施設内研修時に、主体とは何ぞや?みたいな話になり、時間の関係で、結論が出なかったのを思い出したので、次回までに皆さんが納得できる説明をまとめておかないといけませんでした.......。が、講義の予習を優先します(笑)。

  己愛的なクライエントは臨床家に対して不信の目を向け、臨床家の治療的な働きかけを無効化しようと繰り返し試みる。このとき、臨床家自身もまた心理療法は無効なのではないかと疑いを持つ。

 己愛という概念は、そのような関係状況とは一体何かを考える中に生まれてくるものである。自己的なので自己愛的になった臨床家によって考えられているのであるのは、つまりこのクライエントと臨床家は自己愛的なありようを対称的にいきていくいると言える。
 こで対称的に生きられているのは、主体が目の前の他者との間で関係を実感できないという体験様式である。

 ロイトが統合失調症者から無視される中で自己愛を考えたように、臨床家はクライエントから無視される中で、この無視されている関係の追放を考える。それは「『関係がない』という関係」を見ているポジションである。

 述した数多の臨床家たちは、この「『関係がない』という関係」の内実を考える中で、それぞれの自己愛理論を生み出していったのである。

 の意味で、自己愛的なありようとは、他者から疎外されて、その疎外感に耐えかねて、自己から乖離して、その関係を見ている主体と言える。