うたたね茶会と、今日はドラムの日と、すろージャムの湯と、Anlyと、【主体があるから拒否できる、拒否できるから主体が出来るという関係にある。】
今日も、体操で始まりました!貴ちゃんは、見たい番組があったのか?自室で体操!
体操の後、うたたね茶会をやらせて頂きましたが、皆さん食べるのが早くて(笑)、写真をきちんと撮れませんでした.......。
その後、皆さんと電子ドラムを運びました!
早速、拓ちゃんが、おっちゃんのエレキと一緒に叩き出しました。
午後からは、すろージャムの湯に入りに行きましたが、大雨でした.....。濡れるところはないので、その点は安心です。皆さん長めに浸かって、体の中の要らないものが出たでしょうか?
戻ってからも、ドラムの日でした!
たくちゃんのリズムは、沖縄の曲に合ってました!
次は、いのうえっちが挑戦!意外と(笑)うまくて、余裕まであり、パットではないフレームを叩いて、皆さんを笑わせていました(笑)。今日も一日、笑顔で終えたこと、皆様に感謝です!
今日はなぜか?Anlyさんを聞きたくなり、帰宅してからYouTubeを流しながら、事務仕事をしました。段々洗練されてきて、かっこよさが増していますが、個人的にはこの時期が一番好きです。まだ伸びしろがあるというのが、可能性を感じることができ、パワーも感じることが出来るので、勇気づけられます。
SLEEPERS FILM は、良く覗かせて頂きます。
下記は数年前に引用させて頂いた個所ですが、管理者が今度のケース会議後の勉強会で、何か出してくれと言って来たので、下記にしました。個人的にも非常に勉強になった個所です。
『主体があるから拒否できる、拒否できるから主体が出来るという関係にある。』は、重要なことだと思います。後は、個人的に忘れそうなことの復習になってよかったです。
河合俊雄編
六 主体の欠如から見た発達障害
発達障害の中核的な特徴として、主体のなさを取り上げたのは、そこからさまざまな特徴を捉えることができると考えたからである。
すでにカナーが最初に指摘したように、自閉的な子どもは、特定の物に常にこだわったり、同一態の保持ということが言われるように、決まった同じ行動を執拗にくり返したりする。それはコーラの瓶を手放さなかった山中のクライエントのようであったりする。
それは主体がないからこそ、何か決まった物や、何か決まった行動が主体の代わりをせざるをえないのである。 もうすこし軽症の発達障害において、ある種のこだわりや収集癖が見られる場合にも、その集められている「物」に主体があると思われる。
外の決まった物や動きで定点を作り出すのである。だからそれらの物がなくなったり、決まった動きをやめさせられたりすると、自分の定点をなくすのでパニックをおこすことになる。
あるいは伊藤が指摘している自閉症児における「見ること」も、辛うじて定点を保とうとする試みと考えられる。伊藤は、自閉症児が、何かを並べたのを「見る」ことによって、「混沌とした世界をなんとか把握しようとしている」と指摘している。
逆に言うと、本来の主体は、自分の名前を主語にしていたのが、それを言わば捨てて「私」と言えるように、そのような目に見える定点を必要としなくなったり、それを否定したりするところに生じてくる。
山中のクライエントも、セラピーを通じて安心感を得て、よくなってくるとコーラの瓶を手放せるようになる。その意味で主体は、不在、否定、隙間と関わっている。
たとえば人見知りは、母親でないこと、母親がいないこと、さらには母親でない人を拒否することが大切である。主体があるから拒否できる、拒否できるから主体が出来るという関係にある。
さらにはメラニー・クライン(Klein,M.)の提唱した抑うつ態勢というのは、母親というのを喪失してしまうことで、母親という全体対象がこころの中にできることであるが、それによって主体ができると考えられる。ここにも喪失が関わっているのである。〜