今日も、うたたねは賑やかでしたが、写真が組む人によってあったりなかったり、写せたらり、写せなかったり(笑)。同じ仕事でも、余裕の差が明確に出てしまう、朝夕ですね........。でも、たくんえらい!
今日は夜勤ですので、午前中は教科書をたくさん読み、午後からは総会の資料とギターで、直ぐに夜勤の時間になりました......。
下記は、昨夜見たニュースの中にあったものです。モンテーニュの言葉が沁みますね!
「死ぬのは病気になるからではない。 死ぬのは生きているからなのだ」─モンテーニュ
下記を読んでいて、やぱっり自分の軸はこの辺だなと、強く思いました。素晴らしい先人方が残してくれたものを、よりよく使っていきたいですね!
3 表面をめぐる力動
清めのプロセスと転移
~Cとセラピストの間に布置されていたのは言語が介在する以前の早期母子関係ではなかったか。
ボラス(1987/2009)は抱っこのリズムや、声かけのトーンなど言語以前の母親の世話の美的なありようによって、乳児の無形の“空虚さ、苦悶、そして激怒”が満足へと美的に変形されることを述べているが、そのような関係の中で生々しさに対する適切な最終局面で、Cがセラピストの書く論文を通してきれいなものとして生まれ変わりたいと切なる希望をもっていたことにも現れている。
Cは当初から「変わること」を切実に求めていたが、それは違った形での再出生の希求であった。つまらないセラピストという胎内を経てケガレを美的に変形することがCには空想されていた。
この意味で、ケガレをきれいなものへと浄化した夢の中の砂は、実際の箱庭の砂であると同時期、Cとセラピストとの関係性の象徴であったと考えられる。~
ボラスも読みたいと思いながら、中々手が出ていませんでしたが、Amazonを開いてました(笑)。夏休みもコロナ禍で、なくなりそうなので、冬休みにはぜひ読みたいですね!
現代対象関係論の展開―ウィニコットからボラスへ (日本語) 単行本 – 2012/9/25
この本は,内容的には,「私の精神分析」あるいは「私の対象関係論」と名付けるのが相応しいかもしれない。というのはたしかに本書で取り扱っている内容は英国独立学派の対象関係論であるが,伝えようと思っていることは,あくまで私なりの対象関係論の理解だからである。本書を書きながら,私には言いたいことがあり,それを是非とも誰かに聞いてもらいたいと思っていることに気がついた。そしてこれは精神分析を受けている患者と同じ気持ちなのだろうと思った。通常,分析を受けていると,初めは諸々の抵抗が頭をもたげてきて,こんな話をしていて一体何になるのか,この作業は意味があるのか,とかいった気持ちが浮かんでくるものであるが,それが徐々に,自分は話したいし,聞いて欲しいのでここで話している,という気持ちに置き換えられていくことを私たちは知っている。だからと言って,ここで私の語ることが,私の個人的な連想に限られているというわけではない。内容的に言えば「私の精神分析」なのだから,そこには「私」が色濃く反映していることは否めないが,それでも読んでもらう価値はあると思うのである。しかし,私は何を話したいのだろうか?この本は,現代の英国独立学派の対象関係論がテーマの本なので,内容としては,早期発達やその病理,遊ぶこと,創造性などを取り上げている。その内容を聞いて欲しいということだろうか?それは確かにそうであるが,それだけではない。つまり,聞いて欲しいのはその内容なのではなく,私との対話dialogueに参入して欲しいということ,そしてそこで展開する関係性に身を任せながら,あなたの話を聴かせて欲しい,ということである。それでは,この私の聞いて欲しいと思う気持ちは,何に由来するのだろうか? その答えはビオンの言うように,「思考するためには二つの心が必要である」ということの中や,ウィニコットの言うように,「一人の赤ん坊というものはいない」という筬言の中にあるといえるだろう。私は聞いて欲しいのだが,私のプライベートを知って欲しいということではない。そうではなく,「私の精神分析」について,私と対話をして欲しいということである。対話をしてどうなるのか,対話を通して何が生まれるのか,それは今のところ分からないのだが,対話をすることで何かが生まれる予感があるということであり,変形transformしていくことが予測される。つまり,私とあなたが,ただ単に同じ世界を生きているというだけでなく,お互いに変形する関係になる,ということである。(「序章」より)