うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の散歩と、【皆、言葉にこだわってきており、分析は観察に基づいていることを忘れている。】


 恒例の金曜日の散歩は、雨雲レーダーを見ながら、初立池を約1週半

午後からは、雨雲が西から来ていたので、蔵王山の展望台の階段昇降をしたり、展望室などをグルグル歩きました。
一万歩以上歩くことができました!
 痩せるかな?(笑)


 本は今日も早めに出勤して、ファミマで読みましたが、まだこの章が終わりません.....。後10ページくらいなので、頑張ります。アップはしていませんが、生まれて初めて目にする言葉が出て来て、それを調べて、その文脈に入れ込むのに苦労してしまいました(笑)学がないのが丸わかりですね(笑)
 今回、一番最後にある文が一番心に刺さりました。
『皆、言葉にこだわってきており、分析は観察に基づいていることを忘れている。』
 現場や記録を見ると、切なくなる時があります.....。




1.精神分裂病性破綻
次いで私は内的なものであろうと外界のものであろうと、対象群はすべて支配しなければならないというシゾイドの極度な精神的な硬さを理解するにいたった。彼の性的で迫害的で破壊的な衝動についての不安があまりに強いために、対象群のどんな自律性を許されないのだった。断片化の恐怖は破滅的なものである。




2.変形、表象、象徴化
 ゾイドについて考えるべき2番目のこととして、知覚や知覚運動体験を表象、イメージ、象徴、記号、記憶に変形するのに必要な心的装置のことがあるが、こうした変形は正常な人間関係の維持にも、思索のための正常な心的装置の構築にも欠かせない。 私たちはシゾイドでは思考の諸要素が具体的性質を持っていることを見てきたが、これはフロイト自身が無意識体系の基本的特徴のひとつとして事物表象が言語表象に取って変わると記述したものである。この変形機能の欠損は、シゾイドに基本的な欠損であるように思われる。しかし同時に、たとえ人を物扱いしてはいても、高い知的能力を持ち、こうしたやり方で自分にとって危険で迫害的である情緒を取り除いている多くのシゾイドがいることも私たちは知っている。ゾイド型の対人関係と高度に発達した部分自我が形成され、一方、自我の他の部分はシゾイド段階で発達が停止し、そこでは抑うつ態勢はワーク・スルーされないままである。


同様な状況は、臨床的に明らかな分裂病状態にある精神分裂病者にもあてはまる。彼は発達を再開する潜在能力を持っているのだろうか、それともそうではないのだろうか。このことは、象徴的変形のための心的装置の能力と、抑うつ態勢との関連で彼が到達している段階にもっぱら左右される。実際、シゾイド状態は一種の退行で、それが抑うつ状態での苦しみや痛みに対する防衛を形成している患者たちがいる。これらの患者は、本当の精神分裂病者、すなわち、抑うつ状態に決して到達できない患者たちよりも見通しはよい。精神分裂病うつ病の状態の間を揺れる“分裂-情動”状態も臨床ではやはりよく知られているが、これらの症例もまた、精神療法でより良い結果が得られる。また私たちは、治療をしなくても、時間経過とともに精神分裂病からうつ病へもしくはその逆の変化を示す症例についても知っている。 心的装置における変形や表象の機能を探究してきた人たちの中で、ビオン(1965)の業績はことに意義あるものとして際立っている。欠陥をもつ変形の例をあげておこう。ビオンはこう述べている。「精神分析理論において、患者もしくは分析家の陳述は情緒体験の表象である。私たちが表象の過程を理解しうるならば、それは表象および表象されるものを私たちが理解するのを助けてくれるだろう」。



3.償い
 ゾイド段階の構成機制および防衛機制に加えて、シゾイド心性の基本的な面を考えてみたい。それは、患者の振る舞い全体を支配している同害復讐法the low of the talionであり、償いの能力の欠如である。この復讐法のものすごい力こそが、心的構造の障害についてばかりか人間性の欠如についてもシゾイド患者で重要な役割を果たしているのである。私は次のような意味で同害復讐法と言っている。「目には目を、歯には歯を」、「罪に応じた罰を与えよ」、「私が盗めば私の手が切り落とされよう、私が法を破れば罰せられよう、汝が盗めば私が汝の手を切り落とさん」等々。そこには許しも、同情も、償いもない。〜旧約聖書預言者によって説かれた、エホバの恐ろしい報復と怒りがあるのみである。 ゾイド状態における償いもまた、逆-同害復讐法に従っている。これまで私が述べてきたすべてのものと同様に、それも具体的でなければならない。私はこれを修復repair と呼び、償いと区別している。償いとの対比で、これを再建reconstruction と呼んでも多分よいであろう。この再建には、フロイトが言及した賠償restitution と共通するところがある。一方、償いというのはフロイトにとっては未知の概念であり、メラニー・クラインの業績において基本的な役割を果たしている。フロイトの賠償の概念にしても、分割や否認についての彼の概念と同様に、皮相的でとても完全なものとはいえない。建設的な力としての生の本能が解体の本能としての死の本能と対比されている。フロイト1920年以降の業績に見られる基本的に新しい主題は、ほとんどすべての分析家から拒絶されてきた。皆、言葉にこだわってきており、分析は観察に基づいていることを忘れている。