うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

うたたね外壁・自動火災報知機工事開始と、【精神分析家とは誰か】


うたたね外壁・自動火災報知機工事が今日から始まりました!
ファミマさんやその地主さんに設計士さんと挨拶に行き、工事期間中のご協力をお願いをして来ました。皆さん快諾して下さって助かりました。ありがとうございました!
 その期間、駐車場も貸して下さるお米屋さんにも感謝しています。
 早速裏の倉庫が撤去されました。書類などを収納する小屋?小さな倉庫を作るそうです。
 ショートさんが賑やかな日でしたが、親分が夜勤なので大丈夫?ですね。
 久しぶりに、うたたねの事務所で一日パソコンの前にいましたが、工事で呼ばれたり、会計事務所さんに行ったり、車の保険の更新をするので、年末に言われていたのをすっかり忘れていて、電話を頂き慌てて車屋さんに行ったり......。今日もバタバタしてしまいました....。
 取り敢えず当面の事務仕事は片づけたので、ほっと一息。また直ぐに取りかからないといけないのがありますが、今日はもうしません(笑)



 今日は日勤でしたが30分前に出て、うたたね横のファミマさんでコーヒーを頂きながら、約20分本を読ませて頂きました。
 『認知行動療法精神分析が出会ったら』は第2章に入っていましたが、先程初めて気が付きました(笑)2章と最後に対談で終わる内容です。
 今回は藤山先生の箇所ですが投影同一視が分かり易く説明されていたので、アップさせて頂きました。

 明日は早番なのでもう寝ます(笑)


『夢見ることの反対は行動すること、あるいは直接的に誰かをコントロールしていくことです。直接的にコントロールするってことはたとえば、赤ちゃんはワーッと泣いただけでお母さんをおろおろさせることができますね。お母さんはあわてておっぱいをあげる。こういうかたちで患者は私たちをコントロールして、行動に駆り立ててきます。これを対象関係論という精神分析の学派の言葉では「投影同一視 projective identification」といいます。人間の心の中の考えは、思考というものは、もともとは最早期には「考えられる」ことができず、投影同一化という直接的コミニュケーションの中で人を動かしたり、行動をさせたりするということとして存在するんです。』



第2章 精神分析をめぐって
精神分析家とは誰か】
 精神分析家とは誰なのか、というのが問題です。やっぱり分析の中で起きること、夢見ることや考えることの促進とか、解釈を――分析家のやることはほぼ解釈すること、考えたことを伝えるなんですけど――、それを伝えられたときのインパクト、そういうことがなされる中で人間のこころが変わったり、変化したり、成長したりってこととか、そういうことを体感的・実感的に理解して、それを信頼している人だということだと思います。
 こういうことをやっていればそういうことがあるんだなっていうことを前提としてそこにいることができる。精神分析家らしく――「らしく」というのは、「男らしく」とかいいますけれど二つの意味があるから。「あの人変に医者らしくやっているけど」、医者じゃないのに医者らしいっていうのもあるし、「あの人はお医者さんらしいお医者さんだ」っていう場合もあります。この場合はどっちかと言うと後者のニュアンスで、精神分析家らしい、らしくふるまえる人なんです。
 これに最も安全にたどり着ける方法はこれしかない、この方法しかない、というようなことを私は言うことができません。ただ、最も安全にたどり着ける方法は、私の考えでは訓練分析を受けることです。分析設定の中で自分が変わるっていうことを身をもって体験していくってことです。
 次に精神分析家に求められることはこんなことです。精神分析過程の中で、間主体的な場所でいろんなことが起こる。情緒を巻き込んでいろんなことが起こる。それに対してともに生きて夢見ることが可能である。もちろん彼にも夢見られない瞬間もある。つまり振り回されて考えられなくなって、つい行動に移しちゃうということです。それでも基本線としては患者と一緒に夢見ることを続けられる。
 夢見ることの反対は行動すること、あるいは直接的に誰かをコントロールしていくことです。直接的にコントロールするってことはたとえば、赤ちゃんはワーッと泣いただけでお母さんをおろおろさせることができますね。お母さんはあわてておっぱいをあげる。こういうかたちで患者は私たちをコントロールして、行動に駆り立ててきます。これを対象関係論という精神分析の学派の言葉では「投影同一視projective identification」といいます。人間の心の中の考えは、思考というものは、もともとは最早期には「考えられる」ことができず、投影同一化という直接的コミニュケーションの中で人を動かしたり、行動をさせたりするということとして存在するんです。
 人間は思考を、最初考えることができないんです。人が自分で考え出して思考があるのではない。思考は最初から、考えられる前からすでにあるのです。思考というのは伊藤先生の言葉で言えば内的スキーマとかいうのに近いと思いますが、そういうものは最初からある。でもそれは、最初は考えることができない。対人関係の中で人をコントロールしたり、振り回したりする中で作動しています。それを考えられるかたちに自分のこころに収納していくことが精神分析であると言ってもいいんです。考えられる、あるいは夢見られるかたちで、精神分析を受けて得られる心的変化はその方向に人を促進するんで、セラピスト、分析家が精神分析を受けるということは、やはり役立ちます。
 それからもう一つはやっぱり精神分析の理論的・技法的伝統を絶えず十分に知っていて、十分に忘れて、十分に再発見して、十分にそれを生きるってことが大事だと思うんです。ただ知ってるだけだと縛られがちなんですけど、忘れないといけない。忘れるっていうことがおそらくできることが一人前だと思います。これはオグデンの受け売りだけど、忘れる、十分に忘れられる。つまり十分に忘れるっていうことは、スペースが生まれますよね。そこに何をつくるかっていうと、患者さんひとりひとりとのあいだに新しい精神分析をもう一回再創造するっていうことができるかどうか。