今日は、午前中に渥美の戦争遺産を巡ってきました!
たくちゃんは、車の中のものが気になって、降りてこられず(笑)。
向かいにある方に行こうとしたら、りえさんしか来ず(笑)。皆さんそそくさと乗車されていました(笑)。皆でどこかに行くのが楽しいのですね!人のいない場所を、毎日探しています。
午後からは、すろージャムの湯に入りに行きました!
その後、少しまったりと過ごしました。
朝も一番から、セッションをしましたが、戻ってからもセッションをしてほしいとことで、シャッフルでセッション!まりちゃんのキックは、疲れるようで、ダイエットと睡眠の為によさそうでした!
今日も笑顔で一日が終えたこと、皆さんに感謝です!
職員の間でも、下記のニュースが話題になりましたが、この世だから問題になるのでしょうか?でも、一方的に責めるのは、何か違う気もします。この非常事態でも、休めない、出勤しなければならない職業があることを、忘れてほしくないですね!
ましてや、宣言が出ているにもかからわず、不要不急の外出や、旅行などで感染した方々を見るのは、医療従事者とその関係者です。それを思うと、一方的には責められない気もしませんか?平時には、多様性、多様性と言いながら、緊急時には、以前より増して差別が広がっています。多様性というのは、簡単に企業が足りない人間を安く且つ使いやすいように利用してきただけではなかったのか?とも、思えるこの頃です.......。
ダイバーシティだとか、カタカナは、この状況では、全てそんな感じに思える自分は病んでいるのでしょうか?
今回も東畑先生からの引用です。皮膚と言われると、エスター・ビッグを思い出してしまうのは自分だけではないはずです。ウイニコットの偽りの自己と対をなしているように感じるのは、浅学だからでしょうか?ここでは『美』をテーマに進んでいるので(表面的には)、違う方向から見ないといけませんね。もう読み終わって半年以上たっているので、詳細まで覚えていませんが、下記を読み返していたら、三島由紀夫を思い出してしまいます。太宰治もそうかもしれませんが、本当は心の深層が見えているのに、それを実感できていない自分を感じてしまったのではないか?とふと思うことがあります。
6 皮膚的な自己
~美的身体における自己とは皮膚的な自己である。
舟木収は賞賛をもらえないときに自らの筋肉が萎んでいくと語っていたが、それは風船のように表面しかない自己なのである。
このような表面のみで存在するありようを、対象関係論のメルツァーら(1975)は「二次元性」と表現し、そこではこころのやりとりが三次元空間で行われる「投影同一化」ではなく、二次元空間中で表面に張り付く形でしかやりとりがなされない「付着同一化」が機能することを論じている。
美的身体を生きる主体の思考は、表面的なものであり、見える表面以外のどこにも真理、すなわち存在の実感はありえない。
それに対して、人は「顔じゃないよ、こころだよ」と深層のこころを導入しようとする。
しかし、美的身体にあって、こころは深層にはなく、表層にしかない。“Beauty is only skin deep”、美の深層は皮膚の深さであり、表層の深みなのである。
下記は、以前引用させて頂いた丸田先生の本からです。上記を読み返していたら思い出しましたので、再アップです。分かりやすい記述ですね。
一般向けとはいいながら、専門家にとっても役に立ちそうな『自己愛人間』という本の中で小此木は次のように書いています。
「そこでふと気がついたことは、自己愛パーソナリティの研究家であるコフートの治療関係で重要なのはどれだけ患者の自己愛に共感し、いつどこで患者が美化したり正当化したりしているものに幻滅を与え、彼をイリュージョンから目覚めさせるかということです。この幻滅の苦痛を一つひとつ経験することを通して、もっとリアルな現実とのかかわりが育っていく。」
この短い文章の中にKohut治療理論の神髄が実にうまくまとめて述べられています。
共感的対応の重要性。理想化化転移(美化)と鏡転移(正当化)の展開。そして治療場面で必然的に起こってくる共感不全empathic failureが引き起こす変容性内在化(現場の苦痛を一つひとつ経験すること)とその結果生まれてくる微小構造(もっとリアルな現実とのかかわり)。治療理論の骨組みがすべて包括されています。