すろーじゃむワイナリーとイチゴと【ポスト自閉状態のパーソナリティーにおいては、自己と対象の内的空間の欠如は、不安の圧力と無関係に持続する不全状態なのだという印象を私たちは持っている。】
今日は、夜勤で昨日頑張って事務仕事して時間があったので、すろーじゃむのブドウの木の棚を作って来ました! ヨーロッパ風の垣根仕立て(水平コルドン)にしました。
かかった金額は約8,500円!高いのか?安いのか?よくわかりません(笑)
今年は棚を作るのが遅かったので、花芽はあるもののあまり期待はできないので、来年に向けて母枝や来年の芽がきちんと育つように丁寧に誘引・結束ができたらいいなと思っています。
緑だらけの写真で、ブドウがどれだか分かりませんね(笑)
もう少し成長したらわかって頂けるかと思われます。
イチゴもそろそろ、最盛期?を迎えそうなので、時々見に行かないとナメクジさんの餌になってしまいます(笑)
明日は、ジャッキーの飼い主さんの職員さん宅にあるさくらんぼが出来て、こちらは野鳥の餌になってしまうので、休みのまりちゃんに採りにおいでと、声をかけてくれたようです。
夜勤明けで一緒に行きましょうか?その方のご自宅は親分の家の隣ですが(笑)
少しお相伴にあずかりたいと思っています(笑)
そろそろ夜勤に入る時間がきました!
うたたね文庫に、昨日初めての来館者があり(笑)本を二冊借りて頂けました。2〜3日借りたいということでしたが、ゆっくり読んで下さいねと話すと、2日あれば読めるとのことでした。頼もしい方です。みなさんもどんどん借りて下さいね!うたたね職員でなくても、大歓迎です!必ず返却するというのだけが条件です。
『自閉症世界の探究』は難しいです......。頑張って読み終われば、それなりに成長できそうな気がしますので、頑張って読ませて頂きます!
『空想の地理における四つの領域を分化させること』がよくわからず、ネットで調べてみましたが、これと言ったものが検索できませんでした。
取り敢えず、メルツァーの基本的な考えを少しずつ示して行きながら(自分にw)読み進めて行こうと思っています。
次元性の障害
1次元性:中核的な自閉症。世界の中心は自己であり、実質的にマインドレス、タイムレス。
2次元性:内的空間が存在せず、対象と自己の表面だけが経験される。附着同一化。
3次元性:空間の次元があり、コンテイニング機能の中で対象が経験される。投影同一化。
4次元性:時間の連続性。成熟や将来の発達という可能性。自己愛や万能感が消えるときのみ始まる。
※附着同一化=空間の存在を無視し、表面と接触するだけで機能する2次元的なこころの機制のこと。対象のなかには夢想できるこころがなく、思考や記憶のための空間もない。
a.生活空間の組織化
自閉症の子どもに関する研究のこの領域にこそ、早期の心の生活を理解するうえでとびきり豊かな収穫があるだろうと私たちは考えたくなる。なぜなら、他の方法や他のタイプの患者の研究ではあまりに原始的で到底近づけないような過程を明らかにしていくのであるからだ。このような子どもたちは、空想の地理における四つの領域を分化させることが困難なことから、発達のうえで多大な障害をこうむっている。彼らは、大規模な投影同一化によってもたらされる地理的混乱よりも、その複雑さにおいてはるかに凌駕するような種類の地理的混乱を体験している。それはどのように発生するのだろうか?あるいはもっと正確には逆の問いになるのだが、つまりどうして通常の分化が進まなかったのだろうか?私たちが提供できる答えはかなり複雑なものである。
このような生活空間の分化の失敗を説明するためには、自閉症の子どもの性質にまで戻らねばならない。とりわけ彼らの高度な口愛性や、母親対象の独占に際しての激しい嫉妬心や、原始的な官能性や、彼らのやさしくて非サデスティックな性質に。これらすべてによって、彼らは早期から強烈な抑うつ体験をしやすくなっている。その官能性と独占欲とによって、対象と融合しようとする強い傾向が引き起こされる。それはプレイルームで、治療者の代えあだに顔を押し付けてきたり、治療者の手を自分のもののように動かそうとしたり、あたかも家具調度品であるかのように治療者の身体を使用することを求めたりするような行動に容易に認められる。けれども治療者の身体の支配にこんなにもこだわっていることにこそ、いかなる程度の投影性同一化も失敗してしまっていることが露呈している。この驚くべき事実、そしてそれを明らかにしている異常な行動は、部屋や家、食卓の下や食器棚の中に対しても、まったく同じようにあてはまる。子どもはいかなる長さの時間も体験できず、対象の内部にいるのか外部にいるのかも区別できない。治療者の両目を覗き込むことは、ただちに窓の外を眺めることへと変わっていく。たとえば、庭で鳴いている鳥たちは外に締め出されて泣いている赤ん坊たちであるかのように勝ち誇っているかと思えば、次の瞬間には拳を振りあげ窓に向かって頭をガンガンぶつけて怒りをあらわにし、その次には治療者の胸に頭を突っ込んできたりぶつけてきたりする。外に締め出された子どもが困惑し怒りに満ちた子どもに変わるのである。〜
〜プレイルームでのやりとりの観察から見えてくるのは、執拗な侵入性、手あたり次第の官能性、激しい独占欲のために、このような子どもたちは、表層的な性質は豊かであるが中身を欠き、明瞭な内部を持たない、紙のように薄っぺらな対象を体験するようになるということである。このため、外的対象のコンテイン機能の形成不全がまず起こり、こうしてコンテイナーとしての自己の概念を形成することにも失敗する。この深刻な不全は、ビッグが述べている、自己を覆ってくれる皮膚の形成不全とはまったく同じものではないように思える。なぜならビッグが記述しているのは、不安の圧力の下でのコンテイン機能の不適切さであり、概念形成の不全という視点はまったく含まれていない。私たちの症例では、ビッグが明快に記述したような自己の諸部分がこぼれだすという特徴的な現象も、皮膚の機能も見てとることができない。
逆に、ポスト自閉状態のパーソナリティーにおいては、自己と対象の内的空間の欠如は、不安の圧力と無関係に持続する不全状態なのだという印象を私たちは持っている。ポスト自閉状態のパーソナリティーはまた、概して共感覚的機能がばらばらになりやすい傾向と軌を一にして、感覚モダリティの中で、コンテインメントという点でもっとも弱いものが、聴覚であり、特に言語との関連であろう。「左の耳から入って右の耳から抜けていく」は、たいへん具象的にこれに当てはまるように思える。しばしば両親がこうした子どもの問題に最初に注意を払い、心配するようになるのは、一見耳が聞こえなうように見えることであるという事実の説明をこの領域における不全に求めたくなる。けれどもこれと緘黙との関係は、もっと複雑な問題であり、詳細な検討が待たれる。〜