今日は、夜勤明け受診に行き、行きたいところがあったのですが、閉まっていたので、少し足を延ばして、二俣まで行きました。
目的は別にあったのですが、ちょうど秋野不矩美術館で、藤森さんの展示をしていたので、見て来ました。
藤森さんの茶室に入って見たいですね!
激しい雨の合間を縫って、雨が降っていない時に行くことが出来、良かったです。
本は、受診待ちで読みました。集中できると、少し進みました(笑)
アプローチの仕方が違うだけで、目指すところは、古典的な物と同じ様な気が、福祉の現場に当てはめるとして来ました。
下記は、現場でも気をつけないといけないな!とも思いました。
『「分析医に対する特徴的な要求と期待を伴う、太古的な自己愛的投資の転移的侵入は、現時点における分析医との現実的な関係の一部と見誤れる恐れがある。そうした見方に基づき理論を展開すれば、修正的情緒体験を目的として願望の充足を与える治療活動や、説得、説論、あるいは教育へと行き着いてしまう」(p.31)。』
〜第2に、誇大自己(とその転移性活性化)も、理想化された親のイマーゴ(とその活性化)も、純粋に精神分析的な意味では対象objectとしての地位を獲得していないとKohutは主張します。
「社会心理学的な概念の枠組み、あるいはもっと限って、純粋な知覚と認知という枠組みの中で考えれば、自己愛転移は対象関係ととらえられるべきである。しかし深層心理学の観点から言えば、つまり、リビドー備給の性質を考慮に入れれば……、対象は自己愛的に体験されるといえる」(p.32)。
したがって、自己愛転移を表層的にとらえると、とんだ間違いを犯しかねません。
「分析医に対する特徴的な要求と期待を伴う、太古的な自己愛的投資の転移的侵入は、現時点における分析医との現実的な関係の一部と見誤れる恐れがある。そうした見方に基づき理論を展開すれば、修正的情緒体験を目的として願望の充足を与える治療活動や、説得、説論、あるいは教育へと行き着いてしまう」(p.31)。
そうした治療者側の活動が、十分な転移展開の妨害となることは言うまでもありません。Kohutが『自己愛転移』を『転移様の現象』と呼んだのはまさにこの2つの理由によります。つまり、古典的な神経症における転移のように、対象リビドーobject-libidoの備給を受けた対象に向けられる転移との混同に対する反論を予期してKohutは、自己愛的リビドーの備給を受けた対象へと向けられる転移を『転移様』と、呼んだのです。
第3に、誇大自己と理想化された親のイマーゴという、安定した基本的自己愛的形態が形成される時期をKohutは、融和した自己の段階stageof the cohesive selfと呼びます。これは、Freudの言う自体愛の段階stage of autoerotismに続くものです。ちなみにKohutは、自体愛の段階を、自己が融和性を持たず断片化しているという意味で、断片化した自己の段階stage of fragmented selfと呼びます。