田植えと、今日の日中と、学会で治療薬の状況報告 「アビガン」などで改善例もと、志村けんさんのコント動画公開 収益を医療支援に生かすと、【しかし、二人の関係が破綻するとき、内側から理解することも破綻し、こころは見失われる。そのときに、臨床家はこころではなく、その姿を外側から眺めることしかできなくなる。】
朝、買い物に行く途中、田んぼを見たら、既に田植えが始まっていました!
いつもなら、どこかに行こうかな?と、思う時期ですが、今年は既に3月から自粛生活が始まっていて、そんなことを考える余裕もありませんでした.....。
午前中は、うたたね茶会をさせて頂きました!
お昼は、たくちゃんのお父さんからの差し入れがあり、ホームの方も、ショートの方も、職員も頂きました!ありがとうございました!
午後からは、女子も(ホームの)男子もすろーじゃむの湯に行きました!男子は女子が入っている間、トンネルに行きました。地獄の下見?って、誰かが言っていました(笑)。ブドウも日ごとに成長していきます。残酷な日々の中でも、季節は何事もないように、進んでいきます........。
長湯が好きな方は、ゆっくり入っていただけるので、こちらでの入浴は支援者にとっても、ゆったりした支援が出来るので、嬉しいです!
毎日、ニュースを見るのも辛いですが、きちんとした情報は見ておかないといけないので、気を振り絞って、見させていただいています。下記のようなニュースは、少し先が見えるような感じがして、何となくですが、安心できますね。
下記は、才能があるアーティスト達も是非やって頂きたい企画です。くどいですが、才能のある方々は、独自に色々考えられるはずですので、是非新しいお金の生み方も考えてほしいと思います。
東畑先生の引用がもう少し続きます。
作品を作っているときには、中々離れて見る気になれなくて、机の上と手だけを、心の指示に従って見ているような気がしています。手には筆、心は神に!というような言葉があったと記憶していますが、誰が言ったのかは記憶にありません。「美的距離」というのは、うまいこと言いましたね!作品を作っているときにも、それがきれいに見えたり、醜く見えたりすることがあります。そこで投げ捨てるのか?作業を続けるのか?を、自分は選択せざるを得ない瞬間が突如として現れることがあります。下記を読ませて頂いていたら、目を背けるのか?「美的距離」を取ることが出来るのか?だと思いました。完成した時や、後でも、アンビバレントな感覚になる時があり、そこでまた、破り捨ててしまおうか?手を加えようか?と考え込んでいるときもあります。完璧なものは出来るはずはないと分かっていても、そうなってしまいます。
大分逸れましたが(笑)、現場でも、仕事に対してや、その方に対して熱意がある時は、「美的距離」が保てているのかも知れませんね!
8鑑賞的な態度
本章を通して明らかになったのは、クライエントの姿に醜を感じるということは、すでに臨床家がクライエントとの関係から身を引いたことを意味しているということである。
耐え難い「見難さ」の中から、「目を背ける」ことによって、クライエントは醜いものとされる。それは関係から臨床家が身を引きはがした帰結なのであることがクライエントの姿という美的な次元が問題となるとき、臨床家は関係から離れてクライエントを鑑賞するポジションを立っていることになる。
谷川(2003)が「美的距離」について論じているように、美的に対象を捉えようとするときには、そこに距離を必要とするのである。この距離こそが美的な次元の特徴のひとつである。
臨床家は共感というルートによって、クライエントの空想を、クライエントのこころを内側から理解することを試み続ける。しかし、二人の関係が破綻するとき、内側から理解することも破綻し、こころは見失われる。そのときに、臨床家はこころではなく、その姿を外側から眺めることしかできなくなる。
このときに目撃されるのが醜である。美的な構えを取るときには、臨床家は対象に対して距離を取って鑑賞するよってなり、クライエントの心的現実から離れて、その外側をなぞることしかできなくなるのである。