みんなから、ラジオ体操は?と言われることが多くなりました。ルーチンになりましたね!良いルーチンは大歓迎です!
まり子さんが、ゆうちゃんにドラムを勧めたら、なんと!筋が良かったです。ドラマーの熾烈な争いがあるのでしょうか?
朝はロングビーチに行き、少し散策しようと思いましたが、誰も降りず(笑)、写真だけ写して、トンネルに向かいました。
マイクロプラスチックの問題を目の当たりに……。ウミガメや魚が食べてしまうのも無理がないですね……。
午後からは、女子もすろーじゃむの湯に行きました!
きれいな花が沢山咲いていたので、久しぶりに投げ入れました。ブドウの花芽も、ハッキリ分かりますね!
写す職員が違うと、写真も新鮮に見えます。写真は正直で、被写体になられる方の表情が、その方の日頃の向かい方が、ハッキリ分かります。
すろーじゃむにも、ログドラム等があり、入浴後は楽しまれていた様子。自分は男子を順番に入れたり、掃除をしていましたので、写真は頂き物です。
下記のようなニュースは、ご本人さんは大変の思いをされておられるでしょうが、本当に参考になりますね。煽るだけ、フェイクなニュースよりも、良い効果が生まれます。アビガン、副作用なく効果が出ること祈ります。頑張って下さいね!
下記は、ジャパンデザインネットさんからのニュースです。坂本龍一さんとかが、アーティストに補償をと署名活動をされていますが、それはそれとして、坂本龍一さんみたいな方が、オンラインで音楽教室とかすれば、有料でも見たい、自分は見たいです!方がいると思うし、そのような最前線で活躍されている方々が、新しいシステムモデルを示すことが出来れば、若手や今本当に困っておられる方々を助ける方策にもなるように思われますが、如何でしょうか?メディア等が協力して、お互いにwin-winの関係が作らないと、COVID-19後のシーンにも影響しないか心配です。小さな映画館のニュースも、先程やっていましたが、そちらもメディア等が協力して、ネット配信、コアな映画ならコアなファンがいるので、お金もきちんと払って頂ける気がします。才能のある方々が、補償の署名活動をされているのを見ると、残念で仕方ありません。本当に困っておられる方々に対しての補償は、意味があることだと痛切に感じています。
今回も、数年前にアップさせて頂いたものです。ロゼンフェルドも、自分は凄いと思っています。それにも増して、フロイトの凄さは、いくら古典だとか、今の速効性、エビデンス重視の時代でも、自分の中では色褪せません。下記では、赤字の箇所は、自分が追っている、相模原の痛ましい事件にも、当てはまってしまう気がします。
3,生と死の本能についての精神分析理論への臨床からの接近
ナルシシズムの攻撃的側面についての研究
ハーバート・ロゼンフェルド
〜1920年にフロイトが、生の本能と死の本能についての二元論を導入したことで、精神分析の発展の新時代が到来した。それは精神生活での攻撃的な現象についてのより深い理解をゆっくりともたらしていった。多くの分析家が死の本能に反対し、それは単に思弁、理論のものに過ぎないとして捨て去ろうとした。しかしながら、それが臨床において本質的に重要であることにただちに気づいた人たちもいた。
フロイトは、死の本能は個人を死に向かって音もたてずに駆り立てていくものであり、この死のような力は、生の本能の活動を通してのみ外界に投影され、そのうえで、外界のなかの対象群に対して向けられた破壊衝動として現れてくると力説した。一般に、生と死の本能はさまざまな程度に交ざりあい、「純粋な形では現れることはない」とフロイトは断言した。そうとうな本能の脱融合の状態は、未統合の死の本能についてのフロイトの記述――たとえば、死の希求や無の状態へとひきこもりたいとの望み――と確かによく似ているのだが、死の本能その原型のままは観察できないことが詳しい臨床を通して私たちはわかっている。なぜなら、それは常に対象群や自己に向かう破壊過程として顕在化してくるからである。 そうしたわけで、この論文では、とりわけ、ナルシシズムの破壊的側面を明らかにしていくことと、これをフロイトの生と死の本能の融合と脱融合の理論と関連づけることとを私は試みたい。 『快感原則の彼岸』でのより思弁的な接近に続くフロイトの一連の論文のなかで、たくさんの臨床上の現象を説明するために、彼が生と死の本能の理論を用いていることが明らかとなってきた。たとえば、『マゾヒズムの経済的問題』(1924)で述べていた:
「このように、道徳的マゾヒズムは“本能の融合”が存在していることの古典的な証拠のひとつとなってくる:その危険性は死の本能にその起源があることにあり、そして、破壊の本能の形で外界に向けてそらされることを免れた後者[死の本能]の部分を表している」。
『精神分析入門(続)』(1933)のなかで、彼はエロスと攻撃性の融合を検討し、分析家がこの理論を臨床で用いることを推奨した。彼は述べた:
「この仮説は病理過程についての私たちの理解にいずれとても重要なものとなるだろう一連の研究を切り開く。というのは、融合はゆるむだろうし、そうした本能の脱融合は、正常に機能することにもっとも重篤な結果をもたらすだろうからである。だが、この見解はいまだに新しすぎる。今のところは誰も実践に活用しようとしていない」。
そのわずか4年後、『終わりある分析と終わりなき分析』(1937)で、分析治療への根深い抵抗を理解しようとフロイトは死の本能を臨床に応用することに戻った。そこで述べている:
「ここで私たちは心理研究が学ぶことができる究極のことがらを取り扱っている:2つの原初本能の動き、それらの分布、混合、脱融合である。分析作業のなかでの抵抗から涌き上がってくるもっとも強烈な印象は、回復することに対して可能な限りの手段でそれを妨げ、是が非でも病気や苦しみにしがみつこうと決意している力が存在することである」。
このことを彼は陰性治療反応についての以前の理論、そこでは無意識の罪業感や処罰の要求と関連づけていたのたが、それと結びつけ、さらに付け加えた:
「これらの現象は、その目標から私たちが破壊の本能と呼び、そして、生物の根源的な死の本能へと私たちがさかのぼる、精神生活でのある力についての間違えようのないインプレッションである……決して一方によってだけでなく、2つの原初本能――エロスと死の本能――の、同時に起こるか相互に対立する活動によってのみ、生命の現象の豊かな多様性を私たちは説明できる」。〜