うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

マイクル・バリントと、【要するに新規のとり入れや同一化を起こさせる過程には心当たりも多少あるが、既存のとり入れや同一化の取り消し法は皆目分からない。】


 先程、名古屋から帰宅したら、現場に呼ばれて再び今、帰宅しました(笑)
増築工事の方は、屋根が何となく出来ていました!


 本をじっくり読みたいがために(笑)名古屋に早めに行きましたが、三河田原駅に着いたら、携帯と本を忘れたのに気が付き、親分に両方頼みましたが、携帯だけしか持って来てくれなかったので(笑)電車の中では、ユーチューフで色々なギター奏法を見ていました。西海岸で最近はやっているギターのバッキングというのに興味を持ちました。コメントにもありましたが、ジミヘンのリトルウイングみたいな感じのギターで、コドーを分解しながら(コーネル・デュプリーCornell Dupree)もバッキングでやっていたような気がしますが.....)なんとなくCならド・ミ・ソに和声をつけて行くような感じで進んで行くギターでした。
 大分話が逸れましたが(笑)名古屋駅に着いたら直ぐに開店したてのジュンク堂に走って行き(笑)軽い読み物でもと思っていましたが、心理学のコーナーに行ってみたら、欲しかった本がありました!まあ、親分が余分に珍しく持たせてくれていたので、バリントンの本を買ってしまいました(笑)読み始めると、今、現場で進めて行かないといけない課題についてのヒントがいきなり出て来ましたが、またまた、頭を殴られたような衝撃が、自分の中に湧いてきました。勉強は終わりがないですね......。
 読み進めていると、エディプス水準あたりの話もあり、本当に凄い方々は、そこまで考えているんだとも思いましたし、フロイトを批判する方が多いですが、バリントは、自分と同じように(めっちゃ偉そうw)、フロイトが見ていた患者は全てエディプス水準(言葉が使える)だったと言い切っています。
 下記は、自分的には今まで、行動療法的な学習が良い方向にではなく、悪い方向についている時に、学習の消去というのを行動療法的に考えてオペラント化しか選択肢がなかったですが、今日読んだ箇所には、自分が欲しい答えが出ていませんでしたが、読み続けて行くうちにきっと出て来るのでは?と予感してしまう(笑)箇所のアップです、最初からいきなりこれは、期待感がパンパンです(笑)ケースメントはどこにいったんだ(笑)

『要するに新規のとり入れや同一化を起こさせる過程には心当たりも多少あるが、既存のとり入れや同一化の取り消し法は皆目分からない。この知識のほうこそ、どうすれば患者の超自我の一部除去を援助できるかを教えて精神分析技法の有効性を高める、大いに重要な知識のはずであるからまことに遺憾である。』

 本は沢山読んだので、後はギターを弾くだけです(笑)事務仕事山積していますが......。



 治療論からみた退行(基底欠損の精神分析マイケル・バリント
中井久夫

第1章治療過程の心的局在論 
 〜ここまでなら、皆、だいたい知っている。だがそれではとり入れ、理想化、同一化、を取り消すにはどんな手続きが必要かと問われると、われわれは答えに窮する。要するに新規のとり入れや同一化を起こさせる過程には心当たりも多少あるが、既存のとり入れや同一化の取り消し法は皆目分からない。この知識のほうこそ、どうすれば患者の超自我の一部除去を援助できるかを教えて精神分析技法の有効性を高める、大いに重要な知識のはずであるからまことに遺憾である。 分析治療が原則的に自我強化を目指すべきであることもまた大方の賛同をえられるだろう。しかし、では自我強化とは正確にはどういうことか、どんな技法を使えば自我強化が達成できるかときかれれば、手持ちの考えは、はなはだ漠然たるものにすぎない。分析治療のこの側面で現在ほんとうに分かっていることを一言でいえば、エス(イド)に直接接する自我を強化するべきだ、だけだろう。ではいまだエスに直接接する自我とは何を指すのか。それは、自我の中で、本能的満足を楽しみ味わえ、相当強大な緊張に耐えられ、対象を気づかい、対象に配慮でき、欲望の不満足を我慢し、もちこたえられ、外的現実と内的現実の双方の受容に努めたこの二種の現実をともに意識的吟味の対象になしうる部分を指す。反対に、自我の中でも、強烈な本能的満足を楽しみ味わえず、積極的にそうした部分や、また、少しでも感情緊張が高まれぱ否認をはじめ抑止、反対物への転化、反動形成などの手段で自己を防衛せずにおれない部分、つまり自己の内的現実を犠牲として外的現実と超自我の要請に自分から合わせてしまう部分は強化すべきではない。それどころか、その役割の比重の軽減に努めなければならない。 この自我強化とさきの超自我修正とは実は同一過程の二側面を意味するにすぎないのか、ある程度独立の別過程か?この問いをこれまではっきり口に出した人はいない。むろん、まともに論議などされていない。現在もっとも普及している公式見解は何といっているだろう。「自我とは超自我の命令に従って外的現実の要請とイドの要請との間を調停する役である」というぐらいが関の山である。したがって、自我という調停役それ自体に外的現実とイドとの間の妥協内容を決定する力があるかどうか、またかりに自我はその力があるとしても、この力を何らかの意味で左右できる治療過程とはどんなものか、などの問題は全然白紙である。 エスとなると、そもそも左右できるものか、かりにできるとしてもその方法とは何か、はさらにあやしい。第一そんな大それたことができるのか、できるとしてもどんなことをせねばならぬのか、まるで見当もつかない。一次的な死の本能を認める立場の者、したがって一次サディズム、一次ナルシシズム、一次破壊性を認める者は、分析治療によってエスも修正できなければならない、と結論せざるをえない。エスの変化可能という問題は、フロイトがすでに[終わりある分析と終わりなき分析」(1937年)でその一面に触れて「本能の陶治」ということばを宛てている。このことばの意味は、一次サディズムという特殊例では破壊衝動(デストルードとも呼ばれる)は分析治療――あるいは育児――をしている間に分析なり育児法なりによって弱体化しなければならない、ということである。破壊衝動の弱化法は、その源泉であるエスのところで変えるか、あるいは、破壊衝動にとにかくリビドーを添加して両者を“融合”させるか、いずれかである。ところで理論上の二概念“融合”(fusion)脱融合”(defusion)はともにきわめて漠然としたもので、融合や脱融合がエスの中で起こるのか自我の中で起こるのか、ときかれても、いずれとも決しかねる。ことばの意味だけは分かるとしても、どのような機構や過程が関与するかは、誰もこれまで考えてみもしていない。今の手持ちの鍵は、おそらくただ一つ、脱融合と欲求不満とかがかなり緊密な連動関係にあるらしいことだけである。その反対の、融合と欲求充足とが同じく緊密に連動するか否かはあまりはっきりしていない。実践上はこちらの方がよほど重要なのだが――。