うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ねこさん・いぬさんと、【フロイトは、死の本能は個人を死に向かって音もたてずに駆り立てていくものであり、この死のような力は、生の本能の活動を通してのみ外界に投影され、そのうえで、外界のなかの対象群に対して向けられた破壊衝動として現れてくると力説した。】


 すっかり秋らしくなり、ひーひー王子は、小屋で過ごす時間が長くなりました。

 ねこさんは、少しでも暖かい場所を探して、移動しています。

 今日は夜勤なので、昼間に事務仕事をやり、体が冷えてきたので、冷やさないようにジムに行って体を追い込んでから、サウナに入って、沢山汗を流してきました。
しんどい時こそ、体を動かせ!との、中井道仁先生の教えに従いました。
 夜勤でも、皆さんの身体を冷やさないように、まめに巡回させて頂こうと思っています。






 お昼を食べながら少し本を読みました。
本は、メラニー・クライン トゥデイですが、クラインもフロイトの影響を大きく受けているので、本当はフロイト著作集と、クライン著作集を読破しないといけないと思われますが、精神分析家にはなりたくてもなれないので(笑)その辺は、見逃して頂きましょう(笑)
 下記が済んだら、クラインに進んで行きます。

 もう夜勤に入る時間になって来ました。



3,生と死の本能についての精神分析理論への臨床からの接近
 ナルシシズムの攻撃的側面についての研究
 ハーバート・ロゼンフェルド
 〜1920年フロイトが、生の本能と死の本能についての二元論を導入したことで、精神分析の発展の新時代が到来した。それは精神生活での攻撃的な現象についてのより深い理解をゆっくりともたらしていった。多くの分析家が死の本能に反対し、それは単に思弁、理論のものに過ぎないとして捨て去ろうとした。しかしながら、それが臨床において本質的に重要であることにただちに気づいた人たちもいた。 フロイトは、死の本能は個人を死に向かって音もたてずに駆り立てていくものであり、この死のような力は、生の本能の活動を通してのみ外界に投影され、そのうえで、外界のなかの対象群に対して向けられた破壊衝動として現れてくると力説した。一般に、生と死の本能はさまざまな程度に交ざりあい、「純粋な形では現れることはない」とフロイトは断言した。そうとうな本能の脱融合の状態は、未統合の死の本能についてのフロイトの記述――たとえば、死の希求や無の状態へとひきこもりたいとの望み――と確かによく似ているのだが、死の本能その原型のままは観察できないことが詳しい臨床を通して私たちはわかっている。なぜなら、それは常に対象群や自己に向かう破壊過程として顕在化してくるからである。 そうしたわけで、この論文では、とりわけ、ナルシシズムの破壊的側面を明らかにしていくことと、これをフロイトの生と死の本能の融合と脱融合の理論と関連づけることとを私は試みたい。 『快感原則の彼岸』でのより思弁的な接近に続くフロイトの一連の論文のなかで、たくさんの臨床上の現象を説明するために、彼が生と死の本能の理論を用いていることが明らかとなってきた。たとえば、『マゾヒズムの経済的問題』(1924)で述べていた:



 「このように、道徳的マゾヒズムは“本能の融合”が存在していることの古典的な証拠のひとつとなってくる:その危険性は死の本能にその起源があることにあり、そして、破壊の本能の形で外界に向けてそらされることを免れた後者[死の本能]の部分を表している」。



精神分析入門(続)』(1933)のなかで、彼はエロスと攻撃性の融合を検討し、分析家がこの理論を臨床で用いることを推奨した。彼は述べた:



 「この仮説は病理過程についての私たちの理解にいずれとても重要なものとなるだろう一連の研究を切り開く。というのは、融合はゆるむだろうし、そうした本能の脱融合は、正常に機能することにもっとも重篤な結果をもたらすだろうからである。だが、この見解はいまだに新しすぎる。今のところは誰も実践に活用しようとしていない」。



 そのわずか4年後、『終わりある分析と終わりなき分析』(1937)で、分析治療への根深い抵抗を理解しようとフロイトは死の本能を臨床に応用することに戻った。そこで述べている:



 「ここで私たちは心理研究が学ぶことができる究極のことがらを取り扱っている:2つの原初本能の動き、それらの分布、混合、脱融合である。分析作業のなかでの抵抗から涌き上がってくるもっとも強烈な印象は、回復することに対して可能な限りの手段でそれを妨げ、是が非でも病気や苦しみにしがみつこうと決意している力が存在することである」。



このことを彼は陰性治療反応についての以前の理論、そこでは無意識の罪業感や処罰の要求と関連づけていたのたが、それと結びつけ、さらに付け加えた:




 「これらの現象は、その目標から私たちが破壊の本能と呼び、そして、生物の根源的な死の本能へと私たちがさかのぼる、精神生活でのある力についての間違えようのないインプレッションである……決して一方によってだけでなく、2つの原初本能――エロスと死の本能――の、同時に起こるか相互に対立する活動によってのみ、生命の現象の豊かな多様性を私たちは説明できる」。