うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

すろーじゃむの湯と、社会の中で生み出された悲劇「第二の植松を出してはならない」障がい者殺人を見つめると、タリオンとセレスタミンと、【喪と罪悪感と万能感の放棄とにまつわる悲しみの感情は、ひとが抑うつポジションのなかで人間になる途上で、人間になるために払う「代価」のひとつである。】

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 今日は、皆さんとの約束通り、すろーじゃむの湯に入るので、早朝に行ってアルコールで床などきれいに除菌して来ました。

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  みなさん大きいお風呂は大好きです! たくちゃん.......。

久しぶりにすろーじゃむの洗濯機と乾燥機を使いましたが、うたたねのガスの乾燥機には及ばず、半乾きで、うたたねのガス乾燥機に入れました。

 

 

 先ほど、三河地方でも新型コロナウイルス患者が出たとの、昨日からのニュースを追っていたら、下記に目が留まりました。現場に原因があるのではないのか?と書かれていますが、現場の人間としては、その配置が少ないからだというのは、難しい問題ですね。少人数でも余裕があるグループもいるし、多く配置しても余裕のないグループもいます。教育にも触れられていますが、そちらは大賛成です。でも臨床心理学とか精神分析とかの文字が出ていないのには、気持ちが下がってしまいました。精神分析が万能だとは決して思ってはいませんし、自分が一番学習させて頂いているのは、健康についてです。ここであえて精神分析関連のことをアップさせて頂いているのは、そういう方があまりいないからです。投影・転移・逆転移・基底欠損くらいは、掘り下げて学習するべきだと強く思います。第二の植松を出さないために!

 三河地方で新型コロナウイルス患者がでたとだけの報道に何の意味があるのでしょうか?こういうことは、はっきりさせないと、予防しようにも、他人事のようにしか感じられないのではないでしょうか?外出を禁止した(ドライブや散歩や今日も渥美までお風呂に入りに行っていますが)のを批判される方がおられるようですが、このような情報しか得られないなら、判断に間違いはなかったように思われます。自分たちの仕事は命をお預かりする仕事なので、できないことも沢山ありますが、できる限りのことはさせて頂きたいと、スタッフ一同思っています。

 

 新型コロナウイルスの治療法の記事を見ていたら、ふと、タリオンとセレスタミンの服用を思い出しました。喘息の吸入ステロイドが効くのでは?とのニュースで、自分が花粉症になり、中々治らなくて喘息にまでなったら、知人が名医がいると教えてくれ、その耳鼻科に行ったら、タリオンとセレスタミンを処方されました。2日くらい服用したら見事に完治したので、こちらに来てからその処方を3か所の医院と病院でお願いしたら、最後の病院でジャンキー扱いされました(笑)。今は良い医師に恵まれ、そんな強い薬を使わなくても良くなっていますが、一時的・緊急時には?と、ド素人が思ってしまいました。まあ、あまり気にしないでくださいね!

 

 オグデンを続けさせていただきます。

 アンビバレンスの続きですが、現場にいると下記は身に沁みます。妄想ー分裂ポジションや、躁的防衛におられる方に何を話させていただいても、耳を貸していただけないので、抑うつポジションになるように仕向けさせていただきます。それは人によって、慰めであったり、強い言葉であったり、同じ気持ちを感じたまま寄り添うことであったり、色々ですが、どれがその方の今ここでの状況に一番合っているのか?を感じることが(選択すること)出来るのも、普段からしっかりとした関係性が出来ていないと無理です。『喪と罪悪感と万能感の放棄とにまつわる悲しみの感情は、ひとが抑うつポジションのなかで人間になる途上で、人間になるために払う「代価」のひとつである。』は、その方も支援者も、お互いが反復して乗り越えないといけないことですね。

 じように、アンビバレンスにおいてひとは意識的に憎みかつ無意識的に愛するか、その逆である、ということもまた十分ではない。

 いうのは、それでは憎まれているものと愛されているものとの関係が触れられていないからである。

 ンビバレンスの獲得における決定的な達成は、ひとが憎んでいる人物が愛してきた人物と同一人物であり、その人物を無意識的にはまだ愛し、もう一度包み隠さず愛したいと願っている、という事実である。

 こには歴史の書きなおしがない。それまでかすかにしか気づいていなかった真実を暴露した、という感覚がない。

 んでいるときでも、それまで感じていた愛はいまだに現実であり、その憎んでいる相手と分かちあう歴史のなかに現存している。

 からこそ、悲しみの感情はアンビバレンスにとって不可欠である。そこでは、何も取り戻すことができないからである。

 想-分裂ポジションでは、悲しみはひとの情緒的なボキャブラリーの単なる一部でさえない。それはどうしてだろう。

 こでは新しい情緒的状態に入ったとき、すべてが取り戻されるからである。

 と罪悪感と万能感の放棄とにまつわる悲しみの感情は、ひとが抑うつポジションのなかで人間になる途上で、人間になるために払う「代価」のひとつである。