うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、うたたね工事と、【そしてこれらによって、その主体はついに環境の支持なしでも頑張っていけるようになる。】



 今日の日中は、編み物をしたり、絵を描いたり、音楽を聴いたり
ジャスコに買い物に行ったり、拘縮のある方々には、その部分のマッサージを行ったりしました。
 その後、渥美に走り、学齢児さんの入浴介助をして来ました。



 うたたね増築工事の基礎ができた?のでしょうか。
型枠が、お昼から外されていました。これからは、大工さんが入るのでしょうか?





 本は、学齢児さんのバスを待つ間に少しだけ読みましたが、アップは2〜3日前に読んだ箇所です。
 下記のように持って行くには、対象をどのように代えて行くか?だと、現場では思います。その方の好きな物(例えば音楽やパズル等)を一緒に聴いたり、やったりして、同じ空間で、同じ時間を過ごし、その方に同一化できるくらいにして、その好きな物を、その段階では移行対象とみなして(それを利用させて頂き)、段々支援者が移行対象になり、その対象がなくても、やって行けるようにしていけば、その方は、段々落ち着きを取り戻して来られることが多いと感じています。【徹底通過】に何年もかかってしまう時もありますが、諦めずにお互いがやっていけたら、いつかお互い分かりあえる日が来ますし、そういう体験を自分自身もしています。ギターが本当に上手くなるのも、絵が本当に上手くなるにも、徹底通過なくしてはありえませんね。適当なら直ぐに出来ますが、本当に人を感動させようと思うのなら、徹底通過しかありません。
 抑うつポジションをしっかりと確立した主体においては、私がC群と呼んだところの取り入れ、すなわち良い体験や愛する対象の記憶、そういったものが生まれる。そしてこれらによって、その主体はついに環境の支持なしでも頑張っていけるようになる。失われた外的対象に由来する内的表象についての愛が、取り入れられた愛する対象についての喪失に伴う憎しみを、軽減することができる。このような方法やまた他の方法で、悼むことは体験され徹底通過を受けて、そして悲嘆がそれとして感じられるようになるのである。』


 下記は、全て大切な文章や言葉のように感じました。



喪失への反応
 メラニー・クラインの業績は、喪失lossへの反応についてフロイトがわれわれに与えてくれた理解を、より豊かにものにしてくれた。もし個体において抑うつポジションが達成され、充分確立されたならば、その時の喪失への反応は、悲嘆griefないし悲しみsadnessである。抑うつポジションにおいて、ある程度の失敗が伴うと、喪失に対する結果は抑うつである。悼むことmourningは、失われた対象が魔術的に取り入れられていることを意味しており、(フロイトが示したように)そこでは対象は憎しみに支配されている。ということは、それは内的な迫害的要素と接触するのをまかされることを、意味しているのだと私は思う。付随して、このことにより内なる世界の諸力の均衡は転覆し、その結果迫害的要素を増して、良性または支持的な力は弱められる。危機的な状況があるわけで、全般的に鈍化するdeafeningという防衛機制が、抑うつの気分をつくりだす。抑うつというのは癒しの機制である。すなわちそれを戦場を露のようなもので被い、速度を弱めて整理する余裕をつくり、あらゆる可能な防衛を働かせるために時間を与えて、また徹底通過workingthroughのためにも時間を与えて、その結果として自発的な回復が可能となる。臨床的には、(この種の)抑うつは持ち直す傾向があって、これはよく知られている精神医学的観察である。 抑うつポジションをしっかりと確立した主体においては、私がC群と呼んだところの取り入れ、すなわち良い体験や愛する対象の記憶、そういったものが生まれる。そしてこれらによって、その主体はついに環境の支持なしでも頑張っていけるようになる。失われた外的対象に由来する内的表象についての愛が、取り入れられた愛する対象についての喪失に伴う憎しみを、軽減することができる。このような方法やまた他の方法で、悼むことは体験され徹底通過を受けて、そして悲嘆がそれとして感じられるようになるのである。 私があれほどまでに強調してきた、子どもが物を投げる遊びは、子どもの喪失を克服するための能力に成長させていることの1つの指標であり、それゆえにこれは離乳のための指標である。この遊びは、ある程度のC群の取り入れを指し示している。