うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

明けましておめでとうございます!と、【この新しい言語かかわり合いのレベルでも、乳児と母親は、言語という象徴を用いて共にある体験を作り上げます。これこそ、個人的体験に関し、共同で作り上げた意味の共有なのです。】


 新年、明けましておめでとうございます!
本年もよろしくお願い致します!

 写真は、鎌倉で見た注連縄飾りです。
こちらの一番小さい物を頂きましたが、こちらの方が存在感があって、立派でしたが、清貧生活を送らせて頂いている身には、手が出ませんでした......。
 丸は初日の出で、横長は宝船なんですね!
昨日のアップではありませんが、昔の方々の方が、真摯に自然や仕事に向き合っていたので、色々なアイディアが出て来るのでしょうか?
 毎日、見て、考えることを続けないと、何のアイディアも浮かびませんし、直ぐに行き詰ってしまいます。今は出来ない、見えないけれども、粘り強くやっていくしかありませんね.....。現場もアートも、音楽も!


 朝、初弾きをしようと、335を持ってMTRに向かったら、ふと、一番最初に働いていた施設を止める時に、3年間担当をさせて頂いた方のお母さんが、辞めるまでに、みんなと過ごした気持ち、思いを曲にしてほしいとのことで、急いで作った曲を、何年かぶりに聞いてみました(笑)。歌もアレンジもきちっと決めていなくて、取り敢えず、間に合わせで作った『明日をシンジテ』でした(笑)。
 ワンコーラスだけ(笑)。

 ♪飾られたコトバよりも、ホントウのキモチがほしい  光り輝く栄光よりも、変わらない、マイニチがほしい
  そのために、自分をシンジテ  そのために、明日をシンジテ
  今はできないことも、きっと、いつかできるさ  自分らしくやればいい、明日を、明日をシンジテ♪〜


 ギターはちょっとしつこいくらい、ファンクになっていました(笑)。リズムはハウス的で、歌は棒読み(笑)。
でも、それ以来、詩が書けず曲も全く作れていません。








 スターンで、伝えたいことがまだまだ沢山ありますが、後はご自身で読んでみてください、うたたね文庫にありますので、本当に止まれたいのなら、うたたねの職員さん以外の方にもお貸しします。

 去年は、結局精神分析(現在の)の考え方も認知行動療法の考え方も、突き詰めれば、素人判断で申し訳ありませんが(笑)、同じように思うので、一番大事なのは、その方に一番合った支援方法を構築していくということだと思われますので、色々な技法・理論を参考にさせて頂いて、今年は、ある面この3年間の結果を出せればいいな、と思っています。だらだらとやっていても、また次、また次になってしまうので、どこかで一回線を引いておかないといけないなと思うからです。


 昨日のメイウェザーの言葉ではありませんが、コンタクトスポーツ(ある面現場での支援もそのような感じがします。)では、良い時も、悪い時もある!という言葉に打たれました。リングの上だけでなく、本当に物事に真摯に向き合っている人の言葉には重みがありましたし、福祉の世界等、格闘技の世界よりも狭い中、少し勉強しただけで、マウントしたような錯覚に直ぐになれるのも事実です。が、昨日のメイウェザーの言葉を聞いて、上には上がいるし、本当に実力があれば、無駄にロビー活動なんかしなくても、人が集まってくれんだな!とも確信させて頂きました。

 ただただ、前を向いて、今年はやって行きたいと思っています。
去年は、自分の頭にあることを、どうやったら上手く表現できるかを考えなさい!と言われ、まだまだ出来てはいませんが、少しずつでも出せていければとも考えています。





 言語の対話としての側面を考えた場合重要なのは、話すことを学ぶ過程それ自体が、共有体験を形作る、“パーソナルな秩序”を再確立する、そして大人と子どもの間に新しいタイプの“共にある”あり方を創り出す、という意味で鋳直しであるという点です。間主観的かかわり合いでの共にある体験が、平行する2つの主観性が感覚――内的体験の共有――を必要としたのと同様に、この新しい言語かかわり合いのレベルでも、乳児と母親は、言語という象徴を用いて共にある体験を作り上げます。これこそ、個人的体験に関し、共同で作り上げた意味の共有なのです。 伝統的に言語の獲得は、分離−個体化達成過程で、運動の獲得に次ぐ、主要ステップであるとみなされてきました。しかしここでの見解をとれば、その逆もまた真実です。つまり言語の獲得が、合体とか一緒であることに大いに貢献しているのです。事実、学習される言葉はどれも、共通の象徴システムにおいて2つの心性を統合した副産物、つまり共有される意味の造成です。自分たちの個人的体験知識はより大きな体験知識の一部であることや、共通の文化を基盤として他の知識と一体化されることを知る時、子どもは、それぞれの言葉を通じて親と、また後になってからは同じ言語文化内の親以外のメンバーとの間で心的共通性を確固たるものにしていきます。言語は初めのうち、“移行対象”の形をとって作用するという興味深い見解を、Doreが提唱しました。Winnicottの言葉で言うなら、言葉は、ある意味で乳児により“発見され”たり、“創造される”ものです。その時、思考や知識はすでに心の中に存在しており、言葉と結びつく準備ができているのです。言葉は、母親によって外部から乳児に与えられるものですが、その言葉が与えられるにふさわしい思考は、乳児の内部に存在しています。この意味で言葉は、移行現象として、実際には自己に属しているのでもなければ、他者に属しているのでもありません。それは乳児の主観性と母親の客観性との中間くらいを占めています。つまり、Holquistが言ったように、“私たち”がそれを“借用して”いるのです。以上のようなより深遠な意味において、言語とは、共有する意味を通じて、新しいレベルの精神的かかわり合いの出現を可能にする合体体験であると言えます。