先週から、スプリンクラーの工事が始まりました。
区分だけではなく、実際に現場を見に来られて、色々な判断をお役所さんにはしてほしいですね(笑)。
今日は、自分の受診で一日が終わりました....。
本は、受診待ちで読みましたが、スターンを読み返したら、スターンはやっぱり臨床を一番重要視していたんだなと、改めて思いました。
ポリヴェーガル理論入門ショックが、やっと覚めた(笑)ので、(現在は、クライン派の本を読ませて頂いていますが)少し冷静になって(笑)元の精神分析に目が行くようになりました。自分ちも現場が一番大事だと思って支援をさせて頂いています。
下記のように、なって頂くためにも、毎日地道に的を得た支援を、繰り返し、繰り返しさせて頂いています。
お互い人間同士なので、タオルを首にかけておられる方がいたとしたら、タオルが落ちそうになったり、ずれた時に、きちんと直させて頂くとか、当たり前ですが、鼻水が出ておられたら優しくきれいに拭き取らせて頂いたり、口の周囲が汚れていたら、こちらもきれいにさせて頂くとかの、当たり前の対応を日々欠かさずさせて頂くだけでも、特に重度の方ほど、同一化しやすいし、してもらいやすいし、まずは、そこからの話と思います。関係性も(ある意味、枠組み)作らないで、いきなり支援というのは無茶な話ですが、そんな現場を沢山見て来ました.......。
自分達も、特に仲良くお付き合いしていないかたから、急に鼻を拭かれたりしたら、びっくりするし、怒れるしですね。
当たり前のことが、当たり前のように出来るのが、本当のプロではないでしょうか?
『このような体験が起こるためには、身振り、姿勢、顔の表情など、コミュニケーションの意味や方法に関して共有される枠組みがなくてはなりません。』
11月から公私共に忙しく、バタバタした毎日でしたが、給与計算が終わったらちょっと楽になったかな?という感じがします。まだまだ、やらなくてはいけない仕事はありますが、少しは息をつくことができました。
第6章 主観的自己感:1 展望 次に、表面的に一足飛び的な成長が自己感に起こるのは、自分にも他者にも心があることを乳児が発見する時です。生後7〜6ヵ月、乳児は徐々に、内的主観的体験、つまり心の“主題”が、自分以外の誰かと共有可能であるという重大な認識に至ります。発達のこの時点における主題は、行動しようとする意図(“私はクッキーが欲しい”)、感情状態(“これはすごい”)、注意の的(“あのおもちゃを見て”)などと同じくらい単純ながら重要です。この発見は、別々の心があるという“理論”の獲得と同じことです。自分とは別の他者も、自分と似たような精神状態をもつのだという感じを乳児がもててはじめて、主観的体験、あるいは間主観性intersubjectivityの共有が可能です(Trevarthan and Hubley 1978)。乳児はまず、心と心に関する理論だけでなく、“交流面を持てる心と心”の理論をも獲得しなければなりません(Bretherton and Bates 1979;Bretherton et al.1981)。もちろん、それは完成された理論ではありません。言ってみればそれは、むしろある種の作業概念であり、“私の心の中で起こっていることは、あなたの心の中で起こっていることとよく似ているでしょうけど、何らかの方法でこれを(言葉なしに)コミニュケートし合うこともできるし、間主観性を体験することもできるでしょう”といった程度のものです。このような体験が起こるためには、身振り、姿勢、顔の表情など、コミュニケーションの意味や方法に関して共有される枠組みがなくてはなりません。〜