アレクサンダー・テクニークと、バンクシー展と、【よい体験がわるい体験よりも優勢になったとき、自我は、理想的対象が迫害的な対象よりも優越していることを信じ、自分の生の本能が死の本能より優勢であると信じる(Segal,1964p.37)。 】
今日は、3カ月ぶりに名古屋でアレクサンダー・テクニークを受けて来ました。
少し姿勢を直して頂くだけで、驚くほど両手の血行がよくなるので、4年間継続していて良かったなと思いました。何事もそれを使いこなせるまで(一生無理かもしれませんが)時間が必要です。
帰宅して、メールチェックしていたら、バンクシー展の知らせが来ていました!
是非見に行きたいですね!個人的には、バスキアの方が好きですが(笑)。
下記は、オグデンの続きです。
当たり前と言われれば当たり前ですが、現場で余裕がないと、しっかりと忘れてしまうのも下記の様な考え方かもしれません。生きた時間とは、その人が良い体験(迎合するわけではなく)を得られることのできる時間です。仕事の慌ただしさは、さっさとしてしまえば直ぐに終わるので、自分は雑用はさっさと片付けて、皆さんと同じ空間で、同じ時を、生きた空間・時間に出来るように考えさせて頂いています。1ON1ではありませんが、みんなが主役になれるように考えさせて頂いています。
解釈は、陽性転移・陽性逆転移じにしか効果がないと、現在読ませて頂いている『転移と逆転移』にも書かれています。
~ここで、乳児がどのようにその前概念による囚われを打ち破るのか、という問題が生じてくる。
クラインの考える乳児は、どのようにして体験から学べるようになるのだろうか。
クラインによる解答のひとつは、乳児の生物学的な成熟とあいまって、よい体験が世界の危険についての乳児の確信を柔らかくするというものである。
よい体験がわるい体験よりも優勢になったとき、自我は、理想的対象が迫害的な対象よりも優越していることを信じ、自分の生の本能が死の本能より優勢であると信じる(Segal,1964p.37)。~