うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

クリスマスのお茶碗と、【人間がすべての知覚を性的な意味という見方から解釈し、それによって体験を創造する、という含意こそが、はるかに大きな意義をもっているのである。】

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 今日は、自分の受診で豊橋まで出て、病院の近くのお茶屋さんで、普段飲みの正喜撰を年末年始分も買ってきました。

 ご主人曰く、最近はクリスマスだけでなく、ハロウィン茶会なる物もあるとの事(笑)中々日本らしくて良いですね!

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 袋詰めしてくれている間に、お店の中にある花器やお茶碗を見せて頂きました。

見応えのあるものが沢山ありましたが、高額なので見せて頂くだけに.......。

 

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 帰りは、安いみかんを求めて(笑)、白須賀の直売所まで足を延ばしました。安いみかんを買って帰りました。

 

 『臨床人類学』を早起きして、近くのファミマで読みましたが、もう少しで読み終えそうで、読み終えなかったです(笑)。今月中にはというか、今週中には読み終えます。本当に勉強になりました。400頁まで来ましたが、まだあります.......。

次は、ヘルマン医療人類学にいこうかと思いましたが、ちょっと頭を切り替えてソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』に行くつもりです。気が変わるかもしれませんが(笑)。

 

 性的という表現や、クラインの性器などの表現が、精神分析を違う方向で見てしまう危険性を示してしまっているのも事実でしょうが、逆に分かり易くしてくれているのも、事実かも知れません。性的を性愛的にしてもあまり変わらないでしょうか?実際そのような表現がありますね。それを愛にすればどうでしょうか?余計に漠然としてしまうのでしょうか?ギリシア語には、愛と言う言葉はそれひとつであり、日本語のように親子愛・兄弟愛などという個別の愛という語はないと、若い頃読んでいた本に書かれていましたが、何の本だったか?すっかり忘れてしまっているうえ、自分でギリシア語を調べたわけでもないので、偉そうには言えませんが、個人的には、愛と言う方が誤解なく心に入って来ます。支援をさせて頂いていても、結局は愛という語に行きつくのではないでしょうか?それは恋愛の愛ではないことは、真剣に現場で支援されている方には、理解して頂けると思われます。

 障がいの有無関係なく、ダメな事はダメ!ときちんという事ができないと、お互いに成長できませんし、本当にその方の将来の為になりません。現場でよく見られることですが、建設的な支援方法を考えていかないと、単なる対症療法だけになってしまいます。例えば、子どもの声が苦手で、外出を控えていて、どうしても行かないといけない時にはヘッドフォンをして、音楽を聴いて気を散らす場合には、ヘッドフォンをしている時間を段階を踏んで、短くしていくとかの、建設的な考えを持つと、持たない支援には時間が経つにつれて、雲泥の差が出て来ます。支援計画とか見ていると、何のための短期目標?何ための長期目標?みなさん出来ない事や、きれいごと書いて済ませているだけ(笑)。その方を真剣に見せて頂く事ができたら、その方が本当に必要としていることが見えてくるはずです。

 いつもの如く(笑)逸脱してしまいました........。

 

  この視点に立てば、性本能は単に情熱、衝動、欲望ではなく、人間が意味を創造するためのただひとつの媒体である。

  言葉を替えると、フロイトは、単に性的な願望と衝動を生成すると考えられるものとして、性本能を提唱したのではない。

  人間がすべての知覚を性的な意味という見方から解釈し、それによって体験を創造する、という含意こそが、はるかに大きな意義をもっているのである。

  内的、外的な知覚は、性的な意味のシステムというレンズをとおして意味づけられる。

  さらに別のたとえを用いるなら、性本能は、人間がなまの感覚データの意味を担った体験へと翻訳することを可能にする、ロゼッタストーンなのである(このアイデアに関する視点からの議論については、Greenberg and Mitchell,1983を参照)。