うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

夏の風景と、麩まんじゅうと、ストレッチ教室と、【そして、子どもが母親に独自の主体性を認めないのと同じく、母親は自分の子どもは自分の一部であって、その利害は自分の利害と一致すると思っている。】


今日は、ケース会議だけの日でした。
朝から暑かったですね!ひーひー王子との散歩道ですが、下から坂を見上げると、夏の様でした!
凄く急な坂ですが、3万円の自転車でも(笑)ギヤを一番軽くしたら登れます(笑)
 神経は弱い(頭も)ですが、身体だけは何とか(笑)元気です。

 帰宅して、事務仕事をする前に、玉露(安物ですがw)を入れて、親分が昨日買ってきた、麩まんじゅうなる物を頂きました。
おまんじゅうは美味しかったです。

 会議が終わって、法務局に提出する書類など作っていましたが、送迎会議が長引いていて、おそらく、親分はいっぱいいっぱいでミスを起こしそうな気がして(笑)
遅番を代わりましたが、既に遅かりしで、送迎会議で作成した送迎シフトをシュレッダーに......。代わらなかったらと後悔しています.....。
 皆さんで喧々諤々で作られたのに、本当に申し訳ありません。




 今日は、彦坂先生が夜勤なので、ストレッチ教室がありました!
自分も、洗濯の合間に参加させて頂きましたが、本当に体が伸びて気持ちが良かったです。
皆さんも、頑張ってされていました。


 たくちゃんは、ストレッチを覗きに来ましたが、ギターが気になってしまい、食堂で弾き語りをされていました。
中々形になっていましたが(笑)時間的に無理になってきたので、水分補給を機会にクールダウンに入りました。

 今日も一日無事に終わった事、皆様に感謝しています。親分の件については.......申し訳ありませんでした。
新しい管理者・主任支援員さんがこれからは中心になって頂き、うたたねは動いて行きますので、皆様においては、今後とも宜しくお願い致します。


 本は、会議が終わってから、またまた(笑)ファミマでコーヒーを飲みながら、読みました。
アップはまだしばらく、バリントです。
 下記を読んでいて、大分前に読んだ、ウィニコットの記述を思い出しました。バレリーナの指南書を書かれている方の記述を取り上げて、バレリーナ達にはまず、母親がいると言う事を忘れるな!と言うようなことを書かれていました。
 一次愛もけじめをつけなければならない時期が来て、その時にははっきりとけじめをつけないとダメですね。現場でも、間違った一次愛を放出されている方がいます。やはりきちんと支援が出来ておられる方は、きちんとけじめをつけられる方です!


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〜母の愛は、その欲動的起源によって、幼い子どもすなわち母親の身体にぶらさがっている幼児にのみ向けられるものである。だから幼児期をすぎてずいぶん大きくなってからも、文化に強いられて、世話を焼き愛撫を続け、大人になり、どれほど大きく背がなろうともまだ「私のかわいい赤ちゃん」だと思い、その気持ちをしばしば公言し行動に移す母親は珍しくない。母親からみれば、子どもはいつまでも大人にならない。大人になったときにはもう自分の子どもではないからである。これは母の愛が現実離れをしていることのもう一つの証拠ではないだろうか。ちょうど、子どもが自分の母親を自分とは異なる私的利害を持った存在であるとは思っても視ないために、子どもの愛も現実離れをしているのと同じである。母の愛と母への愛はほとんど完璧な好一対である。 このように、子どもの母親に対する関係は、母親の子どもに対する関係に等しい。ともに満足の対象なのである。そして、子どもが母親に独自の主体性を認めないのと同じく、母親は自分の子どもは自分の一部であって、その利害は自分の利害と一致すると思っている。母子関係は相互交換的な欲動的目標の相互依存関係の上に成り立っている。フェレンツィが性交における男と女との関係について述べたことは、母親と幼児との関係にも当てはまる。彼は、性交においては利己か利他かという問題はありえないなのであって、あるのはただ相互関係だけであると言った。すなわち、一方にとって良いものは、他方にとっても申し分がないのである。性交換的な本能的目的の自然な相互依存の結果として相手が幸せかどうかを心配する必要がなくなるわけである。
 私もこの行動を文明化された母性と区別して本能的母性の呼ぶが、これでも動物や全く原初的な人々が研究対象として最適である。本能的母性においては、素朴エゴイズムが、子どもの母への愛の場合と同じ役割を演じている。しかし両パートナー(母と子と)を同時に考えるならば、フェレンツィに倣って相互関係ということはを使えそうである。この相互関係は生物学的な面であり、素朴エゴイズムは心理的な側面である。生物学的相互依存は素朴エゴイズムを心理的に可能にする。相互依存の 擾乱は そのつど素朴エゴイズムを越える発達が起こる契機である。