うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の夜勤と、【やさしさとは、二次的な目的抑止ではなく発達の抑止なのだと。】


本当は、昨日が夜勤でしたが、親分の仕事の都合で変更になりました。
入浴も、食事も、整容も終わって(掃除洗濯も)食堂におられた方々と、沢山話ができました。
 それも、管理者と主任が延長して仕事を助けてくれたおかげです。ありがとうございました1
皆さんと話すことも、大事な仕事なので、本当に感謝です!

 沢山話していたら、突然、インドの方が現れたり(笑)

 芸術的な?ヘアピンをした方が、現れたり(笑)今日も楽しく、皆さんと一日を終えることが出来ました。

 昨日の利恵さんの写真は、疲れが出ていて、今日も素敵な服を着ておられたので、思わず写してしまいました。可愛いですね!下さった職員さんもいいセンスされています。
 写真が横になってしまいましたが、直りません.......。



 本は、朝に少しだけ読みました。早くそちらに行きたいのですが、この本の技法編にも入っていないので、もう少し続けさせて頂きます。
 精神分析関係の本は、何冊目でしょうか?きちんとした理解はまだ無理ですが、馴染みの言葉が多くなるにつれて、早く読めるようになってきました。ギターの方も、いつも自分でアレンジしていますが、プロの方がアレンジし、ご自身が弾かれている楽譜をネットで見つけて、挑戦しています(笑)。これが中々難しく、ウィスキーがお好きでしょは、約半年かかって弾けるようになりました。一度覚えたら、頭の中に入るので、楽譜なしでも大丈夫になります。まあ、粘り強さだけが取り柄なので(笑)とりあえず、本とギターは続けます(笑)




 

第七章 性器愛について (一九四七年)
 〜第二の現象であるやさしさ(Zartlichkeit)となると話はちがう。フロイトが最初にこの言葉を使って以来、精神分析学の全文献は、この術語を別個の二つに意味に用いてきた。第一の意味は、やさしさとは目的抑止(aminhibition ZIEHEMMUNG)の結果である。実際、やさしさとは、目的抑止の例としてもっともよく引用されるものである。元来の衝動はある目的に向けて生じたのだが、なんらかの理由によって部分的満足、すなわち、意図した目的よりもはるかに満足に甘んじなければならなかった場合である。この見方をとれば、やさしさとは二次的現象であって、元来は目的の貧弱な代用品にすぎない。この「仕方がない」(faute de mieux)という性質のために、やさしさは完全の満足した至らない。すなわち、必ず本来的に若干の欲求不満をともなっている。
 第二の見方をとれば、やさしさはアーカイックな性質のもので、古い自己保存本能と結びついて現れ、あの情熱的でない穏和なものでなく、そのものが目的であってそれ以上は目的は持っていない。だとすれば、情熱的な愛は二次的現象であってそれアーカイックなやさしい愛の上に乗っかったものであるはずだということになる。
 この第二の考えを支持する人類学からのそれらしいデータがある。一般論として、文明にいろいろな形態があるがない全部を二つのタイプに分類することができよう。第一のタイプには、情熱的な愛があり、対象や欲動の理想化があり、潜伏期の厳格な社会的強要(青少年期の性的禁欲)があり、 求愛の作法があり、豊富な恋歌と恋愛詩があり、 性的偽善があり、やさしさを高く評価するということがあり、よく発達した複雑な性愛芸術(ars amandi)がある。第二のタイプにおいては、社会は潜伏期の強要を重視しないようである。実際、何歳であろうと性的禁欲の社会的要求はないに等しいけど求愛の作法も愛の歌もほとんどない。恋愛詩もお粗末である。理想化もほとんどない。やさしさもさほどのものでないからあるのは、そのものずばり単純明快な正義性行動(genital sexuality)である。おそらく、情熱も、ありあまるやさしさも「人工的なもの」であって、文明の産物であり、教育期間に欲求不満による組織的訓練を受けた結果なのである。「やさしさ」という術語のフロイトの憎む用法の一見の矛盾は次のように考えれば解消するであろう。やさしさとは、二次的な目的抑止ではなく発達の抑止なのだと。