うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ラジオ体操と、日本政府の深刻な発信不足が生んだ「日本=第2の武漢」の偏見と、【 欲望は自分の思考や感情としては体験されず、むしろもの、あるいは力として体験される。】

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 今日も、ラジオ体操で朝が始まりました!まりちゃんは、早番さんが来る前に散歩を済ませました。

 どうなるのでしょうか?また、安倍さんが月末までと言われていましたが、終息する気配がないので、迷うところですね。特に愛知県は罹患者が多いので、余計に悩ましいですね.........。マスクもまだ店頭には並んでいないし、消毒エタノーもないし.......。まだしばらくは大丈夫ですが、4月に入ってしまうと、何らかの措置を取らないといけなくなりそうです。

 

 夜勤明け、調べ物をしていたら、久しぶりにモーリーロバートソンさんの記事にあたりました。日本人は、優しすぎるので、言わなくてはいけない場面では、はっきり言わないと、あらぬ誤解を生みだしてばかりですね........。

オグデンですが、引用が少し退行したようになってしまいましたね。

『欲望は自分の思考や感情としては体験されず、むしろもの、あるいは力として体験される。』は、乳房がないから、思考がある。というのとは、反対のことでしょうか?

もし、欲望とは『精神的欲求が生み出す感情』(本能とは『生理的欲求を発生する機能』情動とは『精神的欲求に変換する機能』)ならばとか考えると、マズローの『欲求の5階層説』が頭に浮かんできて(笑)、何を言いたかったのか?すっかり忘れてしまいました。マズローのその説は、よくマーケティング戦略に使われるようなので、これから勉強するものには必要なことかもしれません。

 少しずつ思い出してきましたが、『象徴形成は象徴的等置の形をとる。』ということは、まだ主体が出来ていないことなので、『 主観性は発達状態の初期にあり、そのために、自己は主として対象としての自己である。』と、当たり前のことを言いたかったのか?またまた、分からなくなってしまいました(笑)。夜勤明けで、実力以上のことをしようとするので(笑)、実力のなさが露呈されました......。

 まあ、2つ電話があり、少し考えていたら余計に分からなくなってしまいました(笑)。一つは、本当に考えさせられる事柄でした。家裁の担当者によって、聞き取り方がこうも変わるのか?とびっくりもしました。自分あてではないので、はっきりとは言えませんが、聞き取り方も丁寧だし、聞き取った物の記述の仕方も、誰も傷をつけないような内容になっていました。自分も見習わなければいけないなとも思いました。

 肝心の言いたかったことは結局、思い出せませんでした......。

 下記は、どちらにしても、退行されたときに、現場で使えるように思いますし、妄想ー分裂ポジションのことを言っている感じがします。

二のより原始的な心理的障害の群は、「ものそれ自体」として体験されるような、戦闘隊形をとっている「パーソナルでない」意味群にかかわるものである。

 望は自分の思考や感情としては体験されず、むしろもの、あるいは力として体験される。

 とは、それらによって攻撃され、保護され、圧倒され、窒息され、生きたまま食われ、焼かれ、貫通される。

  象徴形成は象徴的等置の形をとる。

  観性は発達状態の初期にあり、そのために、自己は主として対象としての自己である。

  の自己はなにかを行いうるし、この自己に何がなされうるのだが、その自己は欲望の著述者や体験の解釈者として自分自身を体験することはない。