うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

砂浜美術館と、いのうえっちダンスで崩壊と、【少し挙げれば、まず、静かな落ち着いた部屋、寝心地よい寝椅子、刺激を誘わない環境省患者の話にやたらに口を挿しはさまない分析者、自分の気持を心ゆくまで話してよい患者】


 高知に行っている親分から、写メが送られてきました!
高知県の砂浜美術館さんにお邪魔して、Tシャツ展を視察しているようです。
 サンド・アートでも、Tシャツ展を行うみたいなので、そのために視察に行った模様です。
 写真や報告が楽しみですね!





 今日は夜勤ですが、5月から少し体制が変わったので、皆さんが慣れるまで少しお手伝いさせて頂いています。
今回の夜勤は、何が起きるのか?楽しみにしていたら、みなさん期待を裏切りませんね!
 ゴールデン・ウィークで、帰省されておられる方もいますが、帰宅されない方と夕食後一緒に過ごさせて頂いていたら、

 いのうえっちが、好きな音楽を選んでいました。

 いつものように踊り出したら

 いつも以上に乗ってきて

 みなさんを崩壊させました......。
いのうえっちダンス、おそるべし.......。






 今日は、通院の日だと思って、早番さんのお手伝いをしてから、豊橋に向かいましたが、昨日の間違いでした(笑)そういえば、水曜日が休みの病院でした.....。
仕方なく、戻ってきて、事務仕事を夜勤の時間までしていました。
 本は、昼食をゆっくりできるマックにして、食べながら読みました(笑)マックばっか.......。

 もう基底欠損の技法が出ましたが、余韻に浸る為に、もう少しだけアップさせて頂きます。一次愛も120ページくらい行きました。
フェレンツィも、たまに開いています(笑)。


 下記は、支援の難しい方に、是非とも利用したいものですね。言葉では理解できますが、その方を本当に理解しないと無理そうです。
『第二種の満足は清涼剤的効果、静穏効果である。こちらは患者の意識から興奮、焦燥、刺激を取り除いて充足を生じさせるもので、ちょっと患者を私が先に言った静穏な“万事よし”の状態に向かうようにする。そして今日この状態こそ個人とその周囲とが良い了解関係に入るための最良の基盤である。』


 みなさん、大笑いして就寝されました。管理者さんが遅くまで残ってくれたので、少し息抜きができる夜勤になりました。ありがとうございました!





 〜ここに粗描した治療的態度も、その具体的細部はエディプス水準の患者を扱う際に分析者の採る態度と本質的には何一つ変わらぬものであるので、分析の爼上にのせる話題も普通は同じであることしかし、相違点が一つだけある。それはおおよそ雰囲気の相違、気分の相違である。この相違が分析者患者双方に影響を与える。分析者は万事を即座に“了解”することにかけてはあまり鋭敏でなくなる。特に意味おのれの正しい解釈をもって善からぬものをすべて“構造化”し改変しようと血眼に成らなくなる。事実。分析者は、患者の苦悩に対する耐性が高まり、患者の苦悩につき合って耐えとおせるようになるのでこれは、分析者が自らが治療者として万能であることを証明しようとして強引に患者の苦悩を“分析”しおおせようとすることをやめて。代わりに、自分は相対的無力性を肯定できるようになることである。分析者患者、もう一つの誘惑にも陥らなくなることがそれは、分析者が好意的“管理”を患者の生活に行って、その影響、よって患者の生活を変化させない周囲が患者の耐えられない要求を発しないように持ってゆこうとしたい誘惑だが、これまた分析者が万能感に基づく対応であること分析者はまた、医者がビタミン不足の患者を治療するの時のような意味で患者に“歪みを治す”ような情緒体験を投与しようという万能感に基づく第三の対応を意図しなくなる。実際、かりに分析者が対抗患者に対して以上三つのいずれの万能感反応をもって応答しようという心の傾きをほんの僅かでも感じるならば、この微かな感覚を即座に、治療が基底欠損領域を届いた確実な診断徴候と認識すべきである。分析者の内面に生ずるこのような心の傾きは、すべて、患者の病気の一症状だという評価を下すべきである。ここで“患者の欲求あるいは教生を充足させる”ことについての感想をいくつか記そう。古典的分析技法では、そのような求めに、ひょっとしたら真実妥当な欲求である寡黙知れない可能性を考えて応答しなければならないとは取らずもただの判ってもらおうとする願望とみなす。一部の現代的技法では分析者が患者の欲求を単に理解するにとどめず、一部は充足させてもよいであるないか――たとえば“アクテング・アウト”述べたあるものは許容する、など――という。 ここでわれわれはいくつかの問題に直面する。この充足はいつあるべきことか、いかなる種類の充足を許容すべきか、その充足はいかに生じるべきか、が問われなければならない。〜


 〜どの症例でも、分析場の設定がそもそもある意味では“患者を固く抱きしめ拘束する”ことではないか。〜
 
 〜そればかりか、この古典的雰囲気やり方は、たしかに分析者が、まだ全然解釈を行わない時点で解釈に先立って行う象徴行為の例である。「横臥して下さい」と患者に言えば、とりも直さず分析者の象徴行為である。それも患者の側からはまだ分析者に解釈や行為を求める欲求の出ない前である。これを例として眺めれば、分析者が分析の場で行う患者の欲求充足にはもう一つ重要な側面のあるのが分かる。言うまでもなく一般論として充足には二種あるので第一種の充足は、それ自体も充足をもたらしつつ、さらに充足を求める刺激として働き、全般的に興奮を増大させてゆく。この種の充足は、ありふれた例を挙げれば、性行為を際に用いる各種の前戯だろう。第二種の満足は清涼剤的効果、静穏効果である。こちらは患者の意識から興奮、焦燥、刺激を取り除いて充足を生じさせるもので、ちょっと患者を私が先に言った静穏な“万事よし”の状態に向かうようにする。そして今日この状態こそ個人とその周囲とが良い了解関係に入るための最良の基盤である。 この例をいっぱい化すれば、われわれが問題としたところへの病気の回答となる。分析の場は両立する充足とは患者を刺激しない状態である。それはおおよそ全体的緊張感を低下させ、それをとおして患者分析間のより良質の理解成立をもたらす。古典的分析の場の設定をよくみれば、実に多数のこの型の充足が場の中に組み込まれていることが分かるだろう。少し挙げれば、まず、静かな落ち着いた部屋、寝心地よい寝椅子、刺激を誘わない環境省患者の話にやたらに口を挿しはさまない分析者、自分の気持を心ゆくまで話してよい患者、などである。大局的にこの種の充足は一種の庇護、いや一種の心理的看護行為と言うこともできるのであるまいか。 むろんのこういったこと全部が分析の開始と同時に始まる。一部の分析者の固く信ずるところによれば、フロイトの技法的勧告にもとづく限界設定は絶対的永久的に動かしてならないもので、この限界を越える技法は一切分析的と言うべきではない。私の見解では、そういう分析者は硬直的にすぎる。繰り返しになるが、分析者は自分が“全知全能の対象”になる危険をみずからの行動によって招いてはならない。第二に、欲求の結果が患者の中の興奮を強化させるものではなく、“静穏な万事よしの状態”に、そしてまた患者分析者間ね理解の安全感増大に、導くものであることを見とおしていなければならない。第三に、悪性退行の発生を回避する途をわきまえるいなければならない。 退行の目標が主として外的対象による欲求充足であるらしい感触が強ければ強いほど、分析者はかたく用心しなければならない。患者の対象世界における選択肢の数が限られている場合は嗜癖類似状態の発生する危険が特に大きい。 前節が相当に大切な基準であることは私が知るとおりである。明らかにこれは二方向に作用を及ぼす。患者の将来を左右し、また、いくはくかは患者の過去の病理に光を投じる。外的世界によい対象として信頼できるものがあまりなければ、きわめて強烈な妄想的転移(マーガレット・リトル Margaret Little,一九三八年、一九六一年)が発生する危険性は非常に大きい。外的世界にある同等の強度と重要性のものを探してそれに拮抗させ平衡をとろうとしても、とれる見込みは乏しい。“わがものにする作業”(M・バリント、一九四七年)は冷淡な対象を変化させて関与するパートナーにするのに不可欠だが、もし、好ましい対象が全然存在しなければ、患者は神経症にひっかかって、この“征服作業”遂行能力が僅かしか出せない。この事態は、また、患者の心的構造と性格にかなり重症の基底欠損が間ことを示唆するものである。 しかし、良い外的対象があり、パートナーも得られる場合、分析者は若干の冒険に出てもよいのではあるまいか。私のとんぼ返りの症例がそうであった。逆に外的世界が受容的パートナーに乏しいならば、フロイトの勧告を堅持して、患者の強引な強請に慎重に対処する方がよい。〜