うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

うたたね増築工事と、介護用ベッドと、【乳児は、何かひとつ体験してしまった後は、以前と同じようには感じない。】


 今日明日は、お天気が荒れるので、工事の進展はなさそうですね。
基礎の形が見えてきました。




 今日は、休みでしたが、退院される方をご自宅まで、うたたねの看護師さんと送らせて頂きました。
着いたら直ぐに介護ベッドが届き、業者さんが組み立てられていたので、見せて頂きました。
7年前に、うたたねの介護ベッドを自分で組み立てましたが、一つだけ分からない部品があったので、真剣に見させて頂いていたら、どこにつけるかがやっとわかりました(笑)でも、その部品がどこにあるのかも分かりませんが(笑)

 親分は不愛想ですが、本当は看護師さんが夜勤明けだったので、親分が夜勤を代わってくれていました。
もう少し、愛想よくすれば、誤解されないのにな......っていつも思います(笑)

 この件に関しては、うたたねの看護師さんが中心にきちんとした対応をして下さったので、本当に助かりました!
看護師時代のお話をお聞きしていたら、本当に思いのある方だと、改めて感じました。
4月からは、この看護師さんに、管理者になって頂きます。医療と福祉との連携をもっと強い物にできると、皆さんが期待しています。


 本は、早番をちょっと手伝った帰りに、ファミマで読みましたが、いつもの如く、アップは昨日読んだ箇所です。
メラニー・クラインの、抑うつポジションは、本当に重要なものですね。成長とは、色んな体験が連続して、それを統合していく能力が出来た時に、それぞれの過程が血となり肉となると思われますが、このポジションは必須だと思われます。これがないと、まさしくサイコパスですね......。
 現場での支援も、ほど良い母親的に行う事が出来れば、順調に問題行動などが、徐々に改善して行きますので、この辺りは、特に読み返す必要性を感じています。

 下記は、先日の聴覚過敏で触れさせて頂いたように、不快な思いをしている時になっていた音や声に対してだけ、過敏になるというのを、うまく説明してくれているように、個人的には感じました。
『この食物は同じそれが満ち足りた本能的体験の最中に取り入れられたか、それとも欲求不満に対する過度の怒りによって複雑になった体験の最中に取り入れられたかによって、良いか悪いかのどちらかに感じられる。』



抑うつ的不安
 ここで、もっと複雑なことを述べることになる。本能的体験は、赤ん坊に2つのタイプの不安をもたらす。第1は、私がすでに述べたことであり、すなわち本能的な愛の対象に対する不安である。母親は前と後では同じではない。望むならば、われわれは言葉を使って乳児が何を感じているのかについて記述し、次のように言うことができる。つまり、そこに穴ぼこ[食べた跡−訳者]があり、そこは以前は豊かなものが満ち溢れていた、と。これについては、乳児は2.3週間成長し、より複雑な考えを持つようになるのをわれわれが認めるのかによって、他に多くの言い表し方がある。 もう1つの不安は,乳児自身の内側についてのものである。乳児は、何かひとつ体験してしまった後は、以前と同じようには感じない。このことを、性的体験をした後の大人において、気分が良いか悪いかのどちらかの方向へ変化することと比較するのは、全く理に敵っている。どんな時も、母親が状況を抱えていることを思い起こしてほしい。そこで、乳幼児の個人的な内なる現象が、詳しく研究される必要がある。 授乳の体験を、引き続き利用してみよう。乳児は食物を取り入れる。この食物は同じそれが満ち足りた本能的体験の最中に取り入れられたか、それとも欲求不満に対する過度の怒りによって複雑になった体験の最中に取り入れられたかによって、良いか悪いかのどちらかに感じられる。欲求不満に対するある程度の怒りは、満足のいく授乳においてすら、もちろんその一部として存在するものである。 ここで私は、内側の現象を大幅に簡略化している。しかし、後でこの問題に立ち返り、競い合う力とその制御システムを備えた、自己の内側についての乳幼児の空想を、もっと正しく評価してみたい。 われわれが、内側に関する幼児の考えについて語ることができるのは、幼児が単一状態を獲得していると仮定したからである。すなわち幼児は、すでに境界膜を備えた人間となっており、そこには内側と外側があることになる。 ここでわれわれが言いたいのは、授乳が終わった乳児は、母親の体の中に想像された穴ぼこについて心配しながらも、たくさん自己の内側での大変な闘いに巻き込まれているということである。それは、良い、すなわち自己支持的であると感じられることと、悪い、すなわち自己に対して迫害的と感じられることとの間の闘いである。 複雑な事象が幼児の内側につくりあげられ、子どもはその結果を待つだけである。これは、食べた後は消化の結果を待たなければならないのと、全く同じである。選り分けが、それ自身の速度をもった無言の過程でわれわれ確実に起こっている。知的な制御力とは全く別に、徐々に発達した個人的なパターンに従って、支持的な要素と迫害的な要素が、相互に関係づけられて、ある種の均衡状態に達する。その結果、幼児は内なるニードに従って保持したり排出したりするのである。排出することとともに。幼児はもう一度何らかの制御力を獲得する。なぜならで排出は身体の機能を今一度巻き込むからである。しかし、消化の過程では、役に立たない素材のみを排出するのに対して、想像過程では、良いものにも悪いものにもなりうるものである。 私は意図的に達する体験そのものの中にある本能的満足の諸タイプとしている肛門および尿道の体験に言及するのを省くことになるだろう。なぜなら、その考察は他のところに属するからであり、ここの文脈では、肛門および尿道の体験は、食物摂取および消化全過程の排出部分に相当する。