ミカンとスカーレットとアル中のおやじと、【これらの「ポジション」は通過されるものではなく、体験を組織化し処理する様式として、人生をとおして存続する(Klein,1952a;Bion,1950)。】
もう今年も秒読み的な感じになって来ました!
色々あって、うたたねは、年末年始の休みがなくなりましたが、それはそれでいいのでは?
まだ、今年を振り返るのも早いかもしれませんが、色々ありました。良いことも悪いことも......。先日、桂九雀師匠の高座を拝聴させて頂いた帰り、時間が遅くなってしまったので、駅前のお店も閉まりだしていて、駆け込んだそば屋さんで、食べ終わろうとした時に、おそらく自分が最後の客でしたが、お店のおばちゃんが、これ食べと、みかんを一つくれた時は、泣きそうになりました(笑)。いつもあまり見ない朝ドラのスカーレットでおとうちゃんが亡くなるシーンを見てから大阪に向かったこともあり、自分の父親はアル中で、母親が自死してからは、全く働く気がなく、祖母に生活をみてもらっていたようなものでした。京都に出ても、京都までお金を修行中の子どもに平気で貸してくれ(返してもらったことが無い......)と来るような父親でしたが、やっと見つけた清掃の仕事で、初めて給料をもらって、初孫の祝いや!と給料袋を破りながら10,000円持って、京阪電車に乗って三条まで来た日を思い出し、余計に泣けてきました(笑)。貸したお金は10,000円どころではなかったですが(笑).......。
話が逸れてしまいましたが、オグデンの続きです!
北山修先生が、今の世の中は、裏をなくしてしまってしまったので、全てに光が当たってしまい、下記の様な分裂を通して、自己を守ることが難しくなって来ていると言うようなことを、本に書かれていましたが、個人的にもそう思います。自分の中でさえ、あれとこれと言うような区分けを、色んな物・場面で行っていて、その区分けが出来なくなった時に、精神を病んでしまうような気がしていますので、裏表のない人間とは、おそらくお付き合いができないように、自分の中にも同じことが言える気もしています。そういう考え方が、現場での支援にも役立つというのは、あながち間違いではないようにも思えます。
~これらの「ポジション」は通過されるものではなく、体験を組織化し処理する様式として、人生をとおして存続する(Klein,1952a;Bion,1950)。
それぞれのポジションは、特徴的な存在の質を生成する(妄想-分裂ポジションと抑うつポジションの関係は次章で論じられる)。
妄想-分裂ポジションが「分裂しているschizoid」というのは、この時期の乳児が、防衛としても体験の組織化様式としても、自己と対象の分割に非常に頼っているからである。
そして「妄想的paranoid」というのは、対象関係的な危険に対する防衛の努力として、投影的な幻想と投影同一化に頼っているからである。
その危険は、クライン(1948)によれば、死の本能に由来する意味のシステムのあらわれである。
妄想-分裂ポジションにおける主要な不安は、自分と価値ある対象の絶滅の恐れである。だが、このことは、全ての乳児が妄想型分裂病者であるということではない。