うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

昨日の夜勤と、【赤ん坊は身体的食べることそのものによって騙されてしまう。食事の後には満足と眠りがくることが、あまりにたやすく仮定されやすい。】


 昨夜の夜勤時、風船バレーをしました。

 中々の盛り上がりでしたが、

 途中から、風船サッカーになりました(笑)
この後、みなさん良く眠られました。
 他の方々は、CDを聴かれたり、好きなテレビを見ていたり、字を描いていたり、電卓をたたいていたりされていました。




 本は、夜勤明けにファミマで読みましたが、アップは、昨日読んだ箇所です。
下記は、現場でも支援者が生き残らなければならないと、言われている気がしましたし、毎日毎日、平凡に過ごせることが、どんなに重要なことなのか?が、この歳になって、やっと実感できました。
『母親が状況を抱えつつ日が経ち、そして“静かな”母親が本能的体験の絶頂に巻き込まれながらも生き残ってきたことを、乳児は了解する。このことが、毎日繰り返され、そして積み重なって、事実と呼ばれるものと空想との違い、あるいは外の現実と内なる現実との違いを、やっと認め始めるわけである。』





〜さて、状況を抱えている母親とともに、ある1日のことを考えてみよう。赤ん坊が1日のある早い時間に、本能的な体験をしたとしよう。話を簡単にするために、授乳のことについて考えよう。というのは、実際これがすべての事柄の基本であるからである。そこに、カニバリズム的で無慈悲な攻撃が現れる。それは、部分的には赤ん坊は身体的行動に現れるし、またそれは、部分的には身体的機能について乳児自身が想像的に練り上げた事柄でもある。赤ん坊が1つ1つを寄せ集め、その答えが2つでなく1つだということが分かり始める。依存的関係(アナクリティックanaclitic)にある母親はまた、本能的な(生物学的に駆り立てられた)愛の対象でもある。 赤ん坊は身体的に食べることそのものによって騙されてしまう。食事の後には満足と眠りがくることが、あまりにたやすく仮定されやすい。しかし、しばしばこのようにうまく騙された後に、苦悩が続くのである。特に身体的な満足が、あまりにも急に熱情を奪ってしまったならば、そうなる。乳児はその時、攻撃性が放出されないままに置かれるのだが、なぜなら授乳の過程では、充分な筋肉性のエロティシズムや原初的な衝動(あるいは運動性)が使われないからである。または、“急に放り出された”ような感覚のままで残されるのだが、それは生への情熱zest for lifeの感覚が突然消えてしまい、乳児はそれが戻ってくるものかどうか知らないからである。このようなことはすべて、臨床的な分析経験で明らかであるし、そして少なくとも乳幼児の直接観察による結果と矛盾することはない。 しかしわれわれはすべてあまりにもたくさんの複雑なことを、一度には扱えない。赤ん坊が本能の放出を経験したことを、当然のこととして認めてみよう。母親が状況を抱えつつ日が経ち、そして“静かな”母親が本能的体験の絶頂に巻き込まれながらも生き残ってきたことを、乳児は了解する。このことが、毎日繰り返され、そして積み重なって、事実と呼ばれるものと空想との違い、あるいは外の現実と内なる現実との違いを、やっと認め始めるわけである。