うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ブラントンが描かれたバッグと、ジャッジメントを手放すことと、【分析家にとっても、[ただ]観察している、という立場を転移されることに耐えることは難しく、とくに実際に行動に移してしまいやすいことが私にわかってきた。】

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 昨日、用事で出たついでに、量販店に行ったらブラントンが描かれたバッグが売っていました。義父が亡くなってから、ブラントンを口にしていません.......。

 台風が心配ですね!遅番の職員さんには休んで頂き、休みの予定でしたが自分が入らせて頂く事にしました。夜勤は親分なので、なんとかなりますね。自分が帰宅する時間には豪雨の予報なので、そのまま施設で待機になるかも知れません。何事もなく台風が過ぎ去ることをただただ祈るだけです。

 

 

 下記は、現場でも気をつけないといけない事です。話が逸れますが、憶測や自分の中にある物だけで物事を判断してしまう人が多く感じます。自分が出てしまうのは誰でもそうですが、きちんとした情報も得ていないのに、自分勝手な判断だけで、憶測だけで物事が動いて行ってしまうのはリスクを伴います。

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 下記を読ませて頂いていたら、水島広子先生のジャッジメントを手放すという言葉を思い出しました。こちらも良い本でした。うたたね文庫にあります。

 

 分析家にとっても、[ただ]観察している、という立場を転移されることに耐えることは難しく、とくに実際に行動に移してしまいやすいことが私にわかってきた。

とくにそうなりやすいのは、患者の話の内容に強い感情が含まれているのに、それが転移と直接つながりを伴っていない場合である。

  それは例えば、親、配偶者、競争相手などと言い争うできごとが報告される場合などに多い。この状況で、分析家は無理やり原初的な対象の役割をとり戻そうとするかもしれないし、あるいは、転移外解釈にひきこまれ、患者の人間関係にコメントすることもある。

  こうなると話の前面に現れてきやすいのはその状況の道徳的な側面であり、分析家には患者の味方をするよう莫大なプレッシャーがかかることが多い。しかし私たちがそうしてしまうと、容易に審判する役割にひきこまれてしまう。

  またたとえ何が起きているかを理解しようとし、もっともらしい共感的なコメントをしたとしても、やはり私たちに投影されている患者の内的な超自我と一致する、超自我的な役割に踏み込んでしまいやすい。

 

  ~ここでもしこの状況に気づくことができれば、自分が排除されているという感情に反応してしまって自分も参加者となろうとすることが少なくなる。

  するとあまり束縛されないまま、観察者の立場に置かれていることに気づき、審判的な転移外解釈をしないようになることができる。