うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

トリックスターと、【クラインは転移を詳細に解明するときには、〈全体状況〉が過去から現在に転移されている、という観点から考察することが不可欠である、と述べている(1952a)。】

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 皆藤先生の本で、トリックスターが出て来て、引用先の本も出ていたので、古い本でしたが購入させて頂きました。河合隼雄先生も訳者のお一人でした(笑)。ますますユングに近づいて行きます。

 

下記はウィキペディアからの引用です。

トリックスター - Wikipedia

 

 皆藤先生の本にも、トリックスターと思しき患者さんが出て来ますが、みなさん葛藤の中においても、しっかりした芯を持っているように感じました。その芯が持てるようになるのも、周囲の理解があってのことだとも感じました。その周囲の理解者になるのも自分たちの仕事だと思われます。

 

トリックスター

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
  トリックスター (: trickster) とは、神話物語の中で、や自然界の秩序を破り、物語を展開する者である。往々にしていたずら好きとして描かれる。善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など、異なる二面性を持つのが特徴である。

この語は、ポール・ラディンがインディアン民話の研究から命名した類型である。カール・グスタフ・ユングの『元型論』で取り上げられたことでも知られる。

シェークスピアの喜劇『夏の夜の夢』に登場する妖精パックなどが有名。ギリシア神話オデュッセウス北欧神話ロキもこの性格をもつ。

特徴[編集]

トリックスターは、時に悪意や瞋恚を持って行動したり、盗みやいたずらを行うが、最終的には良い結果になるというパターンが多い。抜け目ないキャラクターとして描かれることもあれば、乱暴者や愚か者として描かれる場合もあり、両方の性格を併せ持つ者もある。文化的に重要な役割を果たしているとき(例えば、火を盗むなど)や神聖な役割のときでさえ、おどけてみせたりもする。文化英雄であると同時に既存概念や社会規範の破壊者であり、あるいは賢者であるが悪しき要素を持つなど、一面的な定型に納まらない存在である。文化圏によってはコヨーテワタリガラスと関連づけられる。

多くの文化では、トリックスター文化英雄は結びつけられることが多い。例えば、ギリシア神話プロメーテウスは、人間にを与えるために神の元から火を盗んだが、彼はトリックスターとしてよりも文化英雄としての性格の方が有名である。一方、北アメリネイティヴアメリカンの伝承では、コヨーテの精霊が神(もしくは太陽とも)から火を盗むが、こちらはトリックスターとしての性格の方が大きく現れている。これは他の話においてはプロメーテウスは知性のある巨人だが、コヨーテは単なるいたずら者と見なされる場合が多いことからきている。

 

 

 最近の傾向でしょうか?古典的すぎるのかも知れませんが(笑)、きちんとエディプスを越えていない方が多いように感じます。それは障がいをお持ちの方々を支援させて頂いていても、世間に出ていても思います。人様に迷惑を掛けるようなことをした場合には、毅然とした態度できちんと伝えないと、その方の心には全く響かないので、同じ過ちを繰り返してしまいますし、上で述べさせて頂いた、芯を持つことも出来ません。理解したくても、理解できるようにまでお互いが出来るまで、相当時間と体力・気力が必要となります。支援者となるには、きちんと自己否定が出来ることが最低条件かな?と思う今日この頃です。自分の考えにしっかりした芯が無かったり、抱える器になれないなら、本当の支援はできませんが、世は人材不足.......。

 

〈排除された観察者〉としての分析家
 クラインは転移を詳細に解明するときには、〈全体状況〉が過去から現在に転移されている、という観点から考察することが不可欠である、と述べている(1952a)。

 本章で私が注意を喚起したいのは、こころの中のエディプス的構図のうち、異なる面が別々に現れることがある、その様相である。

 ブリトン(1989)はエディプス的な構図の中にある両親の間のつながりを、「見失われているつながりmissing link」として記述し、子どもがこの関係の中で、自分が排除されているのを認めることがいかに難しいかを示した。そしてかわりに、子どもはそれぞれの親と別々につながることを望む。そのためにひとりの親は常日頃排除されていることになる。

 もう一方の対象は、発達早期では通常母親であるが、〈願望の原初的対象primary object of desire〉とみなされ、愛と憎しみの感情の焦点となる。しかしさまざまな程度で、しだいにつながりから排除されていた第二の対象の存在も感じられるようになる。

 この対象は典型的な場合には、子どもの原初的な関係を観察し、審判する超自我の役割をになっている。この人物は賛美、賞賛、激励を与えることもあるが、しかし羨望にみちた破壊的超自我の迫害的な性質を帯びるようになることが多い。多くの場合このように観察されることは屈辱として体験され、とくに苦痛となる可能性がある(Steiner,J.2003,2006b)。