うたたねっとがゴースト状態ですと、うたたねのお盆休みと、【意義深いこころの変化は、まさに喪失に向き合い、悼み悲しむプロセスを通り抜けることによって生じる、と論じることもできよう(Steiner,J.1993,1996a)。】
昨日、すろーじゃむに台風対策をしに行きましたが、まだ片付いていなくて、みなさんと中に入れませんでした......。志願して片付けましょうか?
うたたねっとが、機能していなくて、ゴースト状態になっていて、皆様にご迷惑をおかけしています。復旧までもう少しお待ちくださいね!https://npo-utata.net/
うたたねのお盆休みは、帰省できない方と、3日間夕食は皆さんの好きなものを聞いて外食に行きました。自分は最終日、休みでしたが、台風のこともあり出勤になったので、ご一緒させて頂きました!最終日は中華料理!ちょっと贅沢でしたが美味しく皆さんと頂きました!日中はドンキホーテで、ウィンドショッピングで楽しみました。
下記はまだシュタイナーですが、古典的な精神分析とは、少しやり方が変ってきてはいますが、ワークスルーは避けられないのかも知れませんね。強迫的にするのか、ぼちぼちやるのかの違いのように感じられますが、それは福祉の現場でもそう思います。でも、ちょっとしたことでやれ虐待だ!差別だ!というのは、何か違う方向に進み過ぎているし、現場で支援をきちんとした上で発言してほしいものです。ネット民や、左派の方々のように、一部分だけ切り取ってそれだけで糾弾するのは、笑止ものですね。
分析家が〈排除されている〉と感じることと〈悼み悲しむこと〉
~意義深いこころの変化は、まさに喪失に向き合い、悼み悲しむプロセスを通り抜けることによって生じる、と論じることもできよう(Steiner,J.1993,1996a)。
コンテイメント自体は、そのような変化に向けて必要な段階であるが、私の見解ではそれだけでは十分ではない。患者が分析作業の結果として「理解された」と感じると、不安は軽減し、コンテイメントはうまくいったと考えられる。
しかしそのときにもなお、内在化された対象は、投影された自己部分をコンテインしていて、いまだ自己から分離していない。こころの中に「自己-対象」複合が形成されていて、自己と対象は絡まりあっている。患者は「よくなった」と感じているかもしれないし、受け取った助力は現実的で本質的なものである。
しかし、患者が投影された自己自身の断片を、それを留めている対象から取り戻し、患者がこの断片を所有して自我を豊かにできるようになるために、私はさらなる段階が必要であると考える。
このような分離を成し遂げるのは、複雑で長期にわたるプロセスであるが、しかしフロイトはすでに、1917年の著作「悼み悲しむこととメランコリー」で、それに必要な段階を美しい表現で概略を述べている。
ここで彼は、死別に続き、最初は対象の喪失が対象との同一化と喪失の否認に変わる、と記述している。そしてさらにフロイトは現実に直面することの重要性を強調している。そのためには、対象を放棄して、〈喪の悲しみ〉をワークスルーしなければならないのである。~