うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

aikoさんと、【患者がメランコリー的な否認を抜けだし、現実に向き合う方向に動くことができるためには、このときは〈悼み悲しむこと〉にこそ、直面しワークスルーしなければならなくなる。】

  気が付けば、7月になっていました。1年の半分が過ぎてしまいましたが、まだなにもなしえていません.........。

 

 少し前のものですが、時々見てしまうのが下記です。ラジオや店や街で流れていて、良いなと思う曲は、関西出身の方が自分にには多い気がします。メロディーに乗せても関西弁と言うのは出てしまうのでしょうか?その昔(笑)、サザンが勝手にシンドバットでデビューした時に『今何時?』というフレーズがどうしてもなじめず、勝手に(笑)苦しんでいた(笑)、学生時代がありました。歌おうとしても全然リズムに乗れなくて、関西訛りのアクセントなら歌えたので、勝手にメロディを変えてました。

 下記にあるように、自分が一番好きだからというのが、長続きの秘訣でしょうか?自分が音楽を止められないのも、一番好きだからですね!『好きこそものの上手なれ』は、もう死語でしょうか?現場も一番好きの一つでもあります。だから本も読み続けることが出来るのだと思われます。 今日は早番と、中ぬけで夕方の入浴介助でしたが、社会保険の基礎算定を振られ(笑)、6月分の該当者の給与計算を行ってから、書類を作成し、社会保険事務所に持って行きました。その足で夕方の送迎になんとか間に合いました。

 

 下記はまだシュタイナーですが、抑うつポジションに入り損ねた状態が記述されていて、勉強になりました。個人的に、ざっくりと(笑)、妄想-分裂ポジションから、どうやって抑うつポジションに持って行けるか?を目標にさせて頂く事で、落ち着いて頂くやり方を構築できています。それが上手くいかなかったときの、一つの状態を示してくれているので、下記のような状態に陥ってしまった場合は、支援方法の再構築を考えていかなければなりません。

 

 結局、抜け出すには、ワークスルーが必要なので、心的外傷にならない程度の心の負荷が必要になるのですね。それも、人それぞれ違うので、きちんと向き合ってからしか、支援方法は考えられないですね。

『患者がメランコリー的な否認を抜けだし、現実に向き合う方向に動くことができるためには、このときは〈悼み悲しむこと〉にこそ、直面しワークスルーしなければならなくなる。』

 

 

  〈メランコリー〉は失敗した〈喪の悲しみ〉と考えることができる。メランコリーは、喪失ーー対象の喪失と、同時に生じる万能感の喪失の両方を含むーーを受け入れる負担が過大だ、と感じるときに生じる。 ゆえにメランコリーは、抑うつポジションに近づいたものの、万能感を保つためにそれを避けて逃げ込んだ〈こころの退避〉とも理解できる。患者がメランコリー的な否認を抜けだし、現実に向き合う方向に動くことができるためには、このときは〈悼み悲しむこと〉にこそ、直面しワークスルーしなければならなくなる。通常このプロセスでは、当初、患者は喪失を否認するために失われた対象と同一化していたが、次いでこの否認が苦痛をともない消失していく。~

 

 

 下記は、ウィキペディアからの引用です。

メランコリー - Wikipedia

精神分析と憂鬱[編集]

精神分析学ジークムント・フロイト1917年に著した『悲哀とメランコリー』(Trauer und Melancholie) で「悲しみ」(悲哀)と「憂鬱」(メランコリー)を区別した。愛する者や対象を失って起こる悲哀の場合、時間をかけて悲哀(喪)の仕事を行うことで、再び別の対象へ愛を向けられるようになる。これに対しメランコリーは、「苦痛にみちた深い不機嫌さ・外界にたいする関心の放棄、愛する能力の喪失、あらゆる行動の制止と、自責や自嘲の形をとる自我感情の低下--妄想的に処罰を期待するほどになる--を特色としている。」[11]メランコリーの場合、愛するものを失った悲しみは悲哀と共通するが、「愛するもの」が具体的なものではなく観念的なものであること、対象を失った愛は自己愛に退行し、失った対象と自我との同一化が進むこと、この過程で愛は憎しみに変わり、失った対象およびこれと同一化された自我に対する憎しみが高まり自責や自嘲が起こることが異なるとされ[11]フロイトはここに自殺の原因をも見ている。