うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

四天王寺さんと、施術と、【ひとたびこれらの情動に気づくと、患者が「視線にさらされた」と感じるとき受ける衝撃に強い印象を持たずにはいられない。】

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 慌ただしく、大阪に行って来ましたが、治療まで時間があったので祖母が良くお参りに行っていた四天王寺さんに行って来ましたが、拝観料がいるようになっていました。自分が小さい頃は、なかったような?まあ、いい加減な記憶ですが(笑)。取り敢えず外からお参りさせて頂きました。推古元年に出来たお寺に、令和元年にお参りさせて頂けると言うのも、祖母の導きでしょうか?

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 芸事の上達をお願いしに、竹本義太夫先生のお墓にも参らせて頂きました。中々上手くならないギターも、これで......。なわけないですね(笑)。ひたすら努力あるのみです。松竹さんは、大分前に文楽から撤退されたとお聞きしていますが。昔は芸人さんと興行主さんが、リスペクトし合っていたのかもしれませんね。現代は、生きて行くのに、まずはお金が必要になってくるので、そうも言って居られないのでしょうか?なにか、世間が混沌としていて、何がしたいのか?分からない方々が増えていたり、自分の事しか考える事ができない人が増えていたりで、あまり考えると、辛くなるので、

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 もう少し残った時間、近くの楽器屋さんで、ミニギターを弾かせて頂きました。小さい割には。大きな音がでてびっくりしました。旅茶碗があるなら、旅ギターがあってもいいのではないのか?と親分にメールしましたが、シカトされてしまいました(笑)。店員さんが言われるように、ミニギターはミニギターで、本当のギターとサイズが違うので、弦のテンションの具合も、ネック・フレットの幅も慣れるしかないですが、不器用な人間がこちらを弾くと、自分のギターが弾けなくなるかも知れないと、商売家のない店員さんと(笑)、話しをしていたら良い時間になったので、堺市に向かいました。

 

 今回は2時間見て頂き、こんなに効いた施術は初めてだったのでびっくりしました。ギターを弾く感じが変るかも?と言われましたが、緊張が取れた分、スムーズに弾けるようになった気もしますが、まだ完治とまではいかないので、もう少し、ハードなスケジュールになりますが、通わせて頂くつもりです。予防と施術後のケアというか、良い状態の維持には、アレクサンダー・テクニークが効いているように思いますが、施術が効いているのかも知れませんね。夜勤明けなんか、首の張りが酷かったですが、今日の明けは、首は回るし、張りはありますがそんなにひどくはないので、本当に効いていると実感できます。昨夜、重度の自閉症の方の入浴介助をさせて頂いている時に、身体を洗う際に手をいつものように手首をそっと回転したら、いつもより大きく回ったので、一周回ってしまうのかな?とびっくりしましたが、それも緊張が緩和されているので、いつもより少ない力・動きでも良くなっているのかも知れません。

 お腹が異常に硬いと言われ、お腹が硬い人は、非常に怖い思いをした人だと教えて頂きましたが、それも、意識できる怖さと、あまりにも怖かったり・辛かったりで、防衛的に分裂排除している場合もあるので、あれかな?これかな?という詮索はしないようにしました。人様の身体ばかり見させて頂いていましたが、自分の身体を知ることで、人様の身体のことも、もっと理解出来る様にも思いました。

 

 バスと電車の中で、オグデンを読み終えるつもりが、少しうとうとしてしまったり(笑)、可能性空間の所が難しすぎて、調べながら、何度も読み返しながらやっていたら、進みませんでした......。ウィニコット先生関係の本は8冊読ませて頂きましたが、理解を全くしていなかったですね......。オグデンがまとめて、分かり易く記述してくれているのにも関わらず......。でも、なんとか理解できるように頑張ります。

 


 

 フロイトやクライインについて、辛辣に記述している場面によく遭遇しますが、よくよく読ませて頂くと、ニュートンが言っていたように先人の肩に乗って理論を拡張したり、前進させたりしていくうえでの、記述だとも読み取れます。フロイトヤクラインが残した・発見した物があるからこそ、いまの臨床心理学があることを、皆さん忘れてはいけないと思います。古典的精神分析も自分次第で応用・発展できるし、それができない方々が、もう古典的な物は終わったと言い切ってしまわれるのだと思われます。今流行りの(笑)、一分だけ切り取って議論したり、批判したり、そんなびっくりするような政党もありますが(笑)、現場では流れを見る事を大事にしていきたいと思っています。恥という事を自覚できないのは、障がいをお持ちの方だけでは、ないと思います。まだ、こころの退避所から出るのを、視線にさらされたと(過剰な場合は別として)感じられる能力が発揮できるのなら、正常では?と思える、今日この頃です。あまりにも不条理な事や事件があり過ぎるので、そう思ってしまうのだと思われます。

 

 ~ひとたびこれらの情動に気づくと、患者が「視線にさらされた」と感じるとき受ける衝撃に強い印象を持たずにはいられない。しかし恥とそれに関連する感情について、精神分析は最近になるまであまり注目せず、クライン派分析家さそれを無視する傾向がある。実際ランスキー(Lansky,M.R.2005a)が次のように語るのは確かに正しい。「クラインと彼女の学派の初期のパイオニアたちは……彼女らが非常に重要な発見を成し遂げてきたにもかかわらず、隠れた恥の感情にまつわるダイナミクスに対しては、驚くべき理論的鈍感さを示してきた」(p.875)。