うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

まずは一服と、「京都大学では何も教えません」 京大名誉教授が衝撃を受けた総長の言葉の意味とはと、【すなわち、偽りの安心と否認で、私が彼とともにそれを行動化することがねらいだった。このことはまた、おそらくは主に母親である内的人物像の投影性同一視を示唆しており、その内的人物は弱く親切だが感情に立ち向かうことはできないと感じられているように思う。】

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 本当にバタバタした毎日(笑)。働き方改革なんて本当に全ての人に平等なのか?まあ、全ての人に平等な制度何かありえない事は、皆さん当たり前のように知ってはおられますが、それを施行する省庁の方々が一番守れない状況にあると言うのも皮肉にしかなりませんね(笑)。取り敢えず笑うしかないですね......。

 事業を起こす動機と言うのは人それぞれでしょうが、事業者全員が悪徳でもないのに、全てを一括りにしてしまうと言うのには(個々をきちんと調べる事は不可能ですが)、反発を感じざるを得ません。結局つけは経営者とか、管理職が負う羽目になり、パワハラだとか、線引きが難しいところで強く出て来たら、弱い者が勝つと言う(明らかにブラック的に使われている場合は論外ですが)論理はおかしいですね。

 福祉も、ご家族や、きちんと現場を知らなくて相談支援員になった輩が幅を利かせて、現場の意見はあまり反映されずに、現場の人間だけがしんどい目にあっている現状は無視ですか?みたいな風潮になって来ています、まるで韓国の現政権がやっているようなことではないでしょうか?政策などは、現実感が反映されていないといけないのに、現実はどうでしょうか?社会的弱者の救済と言うのは、本当は制度外でしかできないことが多いことを知らない方が、あまりにも多いのには驚きますし、現場の人間の一人としては落胆せざるを得ません.......。資格だけあれば何でもできるなんても嘘っぱち(笑)ですね?モラルトリートメントが盛んだった時代は、無資格者がやっていましたが(社会的状況が違うのも承知の上での発言です)、そちらの方が治癒率が高かったとも言われています。制度と言うのは、全て一括りにしてしまうので、その方に本当に合ったやり方が出来ないと言うのもあります。強度行動障害の研修なんかも、パートのおばちゃんでも支援が出来るように、指示書を作成するみたいなことを言われていましたが、資格を持った支援員でもきちんと見る事が出来ないのに(笑)、ほんまかな?って思ってしまいます。逆にパートのおばちゃんの方がきちんと支援出来ている場合もあるし、そこも資格や研修で得た知識よりも、子育てで自分が直接得た、クラインやウィニコット、ビオン等の理論がきちんとご自身の中で消化・吸収されて、ご自身の栄養として現場で発揮できるのでしょうね!人を生まれや、立場だけで判断するのはゲスの極みでしかありません。その方の動きや考え方を見て判断させて頂くのが当法人のやり方です。

 

 ある面、下記に引用させて頂いた記事も同じようなことを言われている気がしました。人に教えてもらうだけでは何も身につきませんし、それは単に依存しているだけで、高学歴=社会に出て本当に役立つ人間か?というのも、依存だけで育ってきた人間には指示待ちしかできないと思われます。時間を過ごすだけでお金を頂ける時代なんか遠の昔に終わっているので、自分から進んで仕事をクリエイトできる人間しかこれからは要らないと思われます。それをきちんと教えるのが親であり社会であり、学校であるはずですが、成績重視だけではその方に合った教育は無理でしょうね。親も学校に任せるだけではいけませんし、親の背中を見て子どもは育ちますよね?


 

 

  しばらく、同じような繰り返しになっているかも知れませんが、重要な箇所なので反復しています。精神分析のやり方のように、自分にはこの辺りをきちんとワークスルーする必要を感じています。

 色々と洞察する中で、徐々に見えてきたものをまとめに入っていますが、分からないことが分かるまで、完全にまとめるのは(分かったとしても完全と言うのは無理かも知れませんが)、時期を見極めてからしたほうが良いと言っている気がしました。

 嘘の記録を書く位なら、その時の状況や、自分の中で起きた逆転移を記述しておくべきだとも思いました。自分の成果や存在が欲しいがために、記録を書く支援者がいるのも現実です......。

 

 ~もっぱら直接私の逆転移を通して、すなわち感じ反応するよう私を押し引っ張る仕方を通して、理解できたコミュニケーションの性質について最初に考えてみよう。私たちはここに、逆転移を構成している投影性同一視が具象的な質をもつのを見る。~


 ~絶望とともに私に侵入し、同時に無意識の内に、すべてがうまくいっており今や意味が抜け落ち空疎なものとなってしまっている解釈が意味深いものであり、その時の分析は満足のいく仕方で進んでいると自分で自分をなだめるよう私に強いようとしているものに思われた。このように、絶望だけでなくそれに対する彼の防衛をもNは私に投影していた。すなわち、偽りの安心と否認で、私が彼とともにそれを行動化することがねらいだった。このことはまた、おそらくは主に母親である内的人物像の投影性同一視を示唆しており、その内的人物は弱く親切だが感情に立ち向かうことはできないと感じられているように思う。転移において(状況を単純化しすぎるが)、この人物像は私に投影され、私は自分自身がそれを実演するように強いられているのに気づく。
 ここには、どのような動機からこの投影性同一視がなされているのかをえぐり出すという重要な問題がある。この投影性同一視は、私に何かを伝えることを第一に目指していたのか?私たちが以前に充分に理解できなかなか深い絶望があったのか?あるいは絶望を私に強いたことには何か違う動機があったのか?セッションの終わりというこの段階では私にはわからず、それを未解決のままにしておいた。