うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

「音楽は空気の振動に戻りつつある」 小山田圭吾と音楽の30年と、【私が考えるところそのどちらでもなくむしろ、いま、ここで生きられ経験されていることに分析家の理解や解釈の焦点が合わせれるかどうかであると思う。】

  昨日は、帰宅が遅くなり、一昨日ネットのニュースに上がっていた、小山田氏のコメントが、素敵だったので、ギターを弾いて帰宅した余韻もあって、アップさせて頂きました。物から事に移りつつある今、タイムリーなコメントですね!

 

 『もともと音楽って、物質じゃないんです。空気の振動なんです。エジソンのレコードができたときから複製録音芸術が始まって、レコード業界のようなマーケットができた。それより前は、誰かが演奏したり、歌ったりしていた。つまり、音楽の原初は物質じゃないので、本来的にお金に換算するのが難しい芸術なんですよね。だけど、そこが音楽の面白いところで。

1990年代までは、そういう複製芸術が物質、レコードやCDとして取引される進化の過程があってピークを迎えた。ところが、ネットが登場して、また音楽という原初に近い形=その場で感じる空気のようなものに戻ってきた。それはもちろん課金したり経済活動はあるんだけど、物質じゃないものになっていっている感じはしますね。』

 

news.yahoo.co.jp

 

 

  下記は、上手くいかなくても焦らずに解釈を送らせても良いし、その方が患者さんを追い詰める事にもならないし、今ここで起こっていることが理解できてから、その方の生活史などを考えて、それらが分析家の中できちんと整理でき、解釈が成り立ってからするべきだというのは、自分たちの支援の在り方、考え方もそうあるべきではないのか?と、思えるようになりました。お互いがお互いに迎合することなく、きちんとした関係性が出来てから、頭の中で組み立てて来た支援方法を少しずつ試していくという重要性も、再び考えの中に戻らせてくれました。

 

 

 ~理解はそれ自体、抑うつポジション、属すると思われる。私が論じようとしている患者たちは抑うつポジションにほど到ってはおらず、もちろんそれを十分に分析で扱われていない。私が先ほど述べたように、自分は理解したいと思って来ていると彼らは信じているが、彼らの人格の中の他の力がすぐにとって代わり、分析家をその防衛構造に引き込むなど、無意識のうちにあらゆる種類に活動に分析家を引き込もうと企てるし、この時、これらのことを分析家は理解しなければならない。患者の話しに耳を傾けている時、自分は素材を理解しその無意識の意味や象徴的内容を理解していると信じているのだが、その後の解釈がうまくいかないように想えたり解釈の途中でうんざりしてしまったりという経験は、私たち誰もがもっているのではないだろうか。もし私がうんざりしたら、十分には素材について話していて患者に話してはいないと考えて、そこで止める。有用な分析とはたとえば理解を与えるとか説明するというようなこととは対照的な経験であるという、ある意味であまりに明確な点をこれは示している。
 それはまた、技法についての論議の中でよく出てくる問題、すなわち分析家は転移する中でのみ解釈するのか患者と生活の他の領域についても解釈するのかという問題を解明するのにも役立つ。私が考えるところそのどちらでもなくむしろ、いま、ここで生きられ経験されていることに分析家の理解や解釈の焦点が合わせれるかどうかであると思う。それができたら、そこから前方や下の方や後方に扇形に広げていく。前方というのは外的あるいは内的な世界を意味し、下の方は生活史、あるいはより無意識的幻想を意味する