うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、昨日の写真と、【トレーニーは、子どもを分析するさいに、どこが自分の責任であるかをはっきりしていなければならない。】



 今日の日中は、賑やかだったので、2班に分かれました。おっちゃん班は、活動的な方と、浜松まで外食に行ってきました!
生きは、三ケ日経由で、いい景色を眺めながらドライブしてきました。
 うたたねに戻って来たら、入浴介助して、直ぐに渥美に走り、渥美の方の入浴介助をしてお役ごめんになりました。
あっという間に一日が過ぎ、11月も後、3日ですね.....。




 昨日の写真が沢山あるので、少しだけアップさせていただきます。
ゆうちゃんと、しんちゃんです。


 やっぱり昨日は、理恵さんの写真が多く、アップしたい写真が沢山ありました。



 本は、早目に出て、ファミマでと、夕方、学齢児さんのバスを待つ間に読ませて頂きましたが、アップは昨日読んだ個所です。
大事なところを青字や赤字にしようと思いましたが、全部大事な個所のように思えたので、敢えてそのままにしました。
 『トレーニーは、子どもを分析するさいに、どこが自分の責任であるかをはっきりしていなければならない。』は、現場でも本当に大事なことだと思います。
『もともと子どもが治療に連れてこられた症状を治そうとするのとは異なる分析のねらいを、治療者が自分の臨床判断に基づいて独自に設定するという問題である。』は、良い時もあるし、悪い時もあるし、親御さんとの意見の相違も生まれるところだと思われます。
『また、子どもに過剰に愛着したり、あるいは傷つけたりする不安もある。』は、現場で一番してはいけないことだと思われます。と言う風に、全ての箇所が本当に大事に思えました。
フロイトは1910年に次のように述べていること「私たちは逆転移にきがついたが、それは患者が彼[医者]の無意識の感情に及ぼす影響の結果、彼のうちに起こる……どの分析家も、自分のコンプレックスや内的抵抗の許容を越えて先には行けないことを私たちは知った。」』は、だから精神分析を自分で受けたり、沢山勉強し、現場を経験して自分のこと、自分の仕事をワーク・スルーしていかないといけないと示唆されている気がしました。




2,今日の子どもの分析
 エスター・ビック


〜トレーニーは、子どもを分析するさいに、どこが自分の責任であるかをはっきりしていなければならない。もっとも、これは親が自分に望んでいると感じられるものと相容れないかもしれない。たとえば、子どもの親への敵意や性的願望といった問題を分析する責任もここに属する。このためトレーニーの側に親との関係についての不安が起こるかも知れない。これと密接に関連しているのが、もともと子どもが治療に連れてこられた症状を治そうとするのとは異なる分析のねらいを、治療者が自分の臨床判断に基づいて独自に設定するという問題である。また、子どもに過剰に愛着したり、あるいは傷つけたりする不安もある。前者の不安はたいそうな厳格さをもたらし、陽性転移が展開するのを妨げるタイプの行動をもたらすかも知れない。後者の不安は、保証、子どもの敵対感情や迫害不安の否認、子どもの理性に訴えるような行動などをもたらし、分析家が苦痛な分析の責任を引き受けきれず親の代役をしていることを示す。 責任の苦痛な側面に関するこのような不安は、責任を共有するスーパーバイザーの手助けがあれば、限度内に保たれ、多くの場合軽減する。もし不安があまりにも強い場合は、治療効果がたいそう限られ、その結果、スーパービジョンがほとんどあるいはまったく役立たずトレーニーはさらなる個人の分析で妨げになっている無意識と葛藤では打ち勝つことができないことも起こりうる。このような不安はに第2のカテゴリーの不安、すなわち逆転移現象から起こるストレスに近い。 フロイトは1910年に次のように述べていること「私たちは逆転移にきがついたが、それは患者が彼[医者]の無意識の感情に及ぼす影響の結果、彼のうちに起こる……どの分析家も、自分のコンプレックスや内的抵抗の許容を越えて先には行けないことを私たちは知った。」子どもの分析家の逆転移によるストレスは、大人、少なくとも精神病でない大人を治療している分析家のそれよりも大きいことを私は示唆した。これは2つの要因によると思う。第1は、子どもの親との関係から起きてくる無意識の葛藤であり。第2は、子どもの素材の性質である。 第1の要因について言えば、子どもの分析家は無意識的同一化の問題を絶えず抱えている。彼は、親に反して子どもと、子どもに反して親と、あるいは子どもへの保護的な親としての態度と同一化するだろう。これらの葛藤はしばしば親への迫害的態度や罪業的態度をもたらし、そのために分析家は親に批判がましくなったり、親の是認を過度に求めるようになる。さらにトレーニーは、子どもの親との関係の二重の性質を理解することの難しさがある。すなわち、子どもの年齢相応の正常で健康な親への依存と、子どもの内的問題から起こる幼児的要素である。これがトレーニーに認識され受け入れられれば受け入れられるほど、子どもの幼児的部分が転移に入ってきて、その結果、分析早期子どもの幼児的部分が改善する。こうしてトレーニーは、親が子どもの病気を見失って治療をやめたがったり、分析の長期休暇中に家で問題がひどくなったりする危険性を予見し、それに備えることができる。 分析家トレーニー親との関係の難しさがどのように移り変わるかはここでは語りきれない。それは取り扱いが微妙で複雑な、分析家の作業に欠かせない部分であり、柔軟性と子どもの分析一般、特に自分の仕事に対する相当の自信を必要とする。このようなことの当然のこととなれば、多くの親との関係が分析家にとってさらなる満足の源となる。 子どもの分析の第2の特異な要因は、子どもの素材内容とその表現様式の双方による分析家の心的装置への負担に関するものである。子どもの依存の強さ、陽性転移や陰性転移の激しさ、空想の原初性が分析家自身の無意識の不安をかきたてやすい。子どもの分析家の中への暴力的で具体的な投影を包み込むのは難しい。さらに、子どもが苦しんでいることで分析家の親としての感情が歓喜されがちであり、そのような感情は至当な分析的役割が保たれるようにコントロールされなければならない。このような問題すべてが分析家の理解を鈍らせ、次には分析作業に対する不安と罪業感を増す。 さらにまた、子どもの素材は大人のものより理解するのが難しいようである。というのは、それに表現様式だけでなく出所がより原初的で、そういった水準の無意識を深く知っておく必要があるからである。分析家は、光明となるような何かが突然深みから現れるまで、なにがなんでも起こっているかまったくわからないかもしれないまま長いあいだ子どもと一緒に座っていなければならないかもしれないし、どのようにしてその結論に達したのか必ずしもわからないまま解釈する。子どもの分析家は、子どものプレイや非言語的コミュニケーションの意味についての手がかりを得るためにある自分の無意識なかなり頼らなければならない。〜