うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、ぶどうの剪定しなければ....と、【もし、分析家が実際に混乱しているなら、患者は無意識にこの混乱に加担していることもありうるだろうし、そして今度は患者がそのために混乱させられることになるだろう。】


 今日の日中は、買い物行ったり、白谷海浜公園を歩いたりしました。
買い物はジャスコで、久し振りにセルフレジをしてみました。
 散歩も、日中は暖かかったので、歩ける方は歩き、歩けない方は車椅子で行いました。
写真をあまり撮っていなくて申し訳ありません....。


 夕方、渥美の送迎が終わり次第、すろーじゃむで入浴介助がありました。
写真は、日曜日に写したものですが、ブドウは葉が落ちたので、剪定をしなければいけませんね。
 根元から出た枝の方が良いので、こちらを来年の母枝にしようと思っています。
剪定鋏を持っていかねば.......。





 本は、バスを待つ間などで読ませて頂きましたが、アップは昨日読んだ箇所です。
ラカンが言っていた、一瞬でもたじろいだら、非分析者になるのは、分析者だ!を思い出しました。



理解が得られていない時間
 〜しかし分析家は全知ではない。特に、分析家自身がまだ理解しえていない自分自身のある一面と患者が余りにも密接に通じあっている場合には分析家の理解は必ず失敗に終わる。さらに、他の患者に比べてかなり非協力的な患者たちがいる。最も優れた分析家でさえもコンタクトを維持し続けることがきわめて困難な患者たちがいる。彼らとの間では“正常”な関係は原則というよりむしろ例外である。しかし協力的な患者との間でも、その関係が中断されることはきわめてしばしば起こる。 これらの中断は、内容が曖昧になったと感じ、話の脈絡をなにか見失っているように感じることでただちに気づかれるものである。このとき実際どのようなものが失われていようと、その失われているという事実が、患者だけでなく分析家にとっても緊張として感じられるだろう新しい状況を作り出す。もちろん分析家の中には――たとえば持続的な成功による安心感を渇望している人達には――より強くこのような緊張を感じる人もいる。しかし、個人差は別にしても、分析家すべてに必ず緊張を強いる分析技法のまさにその本質にある特性である。あきらかに苦しんでいる患者を助けることができないときにはとくにそうである。というのは、私の検討が今までのところ正しいならば、どの分析家にも死の本能を中和しようとする親的欲動や修復しようと欲動を充たしたいニードがあるからである。しかし分析家は実際の親、教育者、あるいはまた他のタイプの治療者よりもそうするやり方をはるかに制限されている。分析家は解釈を与えることに限定されている。そしてその解釈を与える能力は患者を理解し続けることにかかっている。もしもこの理解することがそこなわれるならば、それは時々あることだが、そのときにあてにできる他の治療法はないのである。そしてこれが分析に特徴的な状況である。このような状況においては理解が欠けているために意識あるいは無意識の不安が起きやすくなっており、不安はなおいっそう理解を消してしまう。このような悪循環の始まりにこそ正常に逆転移感情におけるあらゆる逸脱があると私は考えている。
 もし、分析家が実際に混乱しているなら、患者は無意識にこの混乱に加担していることもありうるだろうし、そして今度は患者がそのために混乱させられることになるだろう。