うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

年末チャリティーと、トウガラシと、【彼は、自分自身の感情のなさを投影して、その投影に気づき、そして豊かな感情をもった分析者を取り入れるのです。】


 朝、早番に入ってから、神戸館さんに寄ったら、ご寄付が、前年度位、集まったと話がありました。
ご協力頂いた方々には、本当に感謝しかありません。本当にありがとうございました!
 商品も絵も大分なくなっていました。


写真は、少し前、大家さんの家の玄関にあった、トウガラシです!
あまりにきれかったので、写しました。カーグの作家たちに描いて欲しいですね!


 学齢児さんの、入浴介助が、今年は最後だったので、良いお年をと話したら、えっ!とお母さんが言っていました(笑)でも、今日は20日です!
今年も後、10日ですね.......。




 
 本は、学齢児さんのバスが遅れたので沢山読めました。
アップは昨日読んだ箇所です。
 どこを読んでも、本当に勉強になります。




感情
 こうした関わりは、どのような範囲のものであれ、感情を伴います。分析者は、進んで感じようとしなければなりません。患者について、患者とともに、そしてときには、患者のためにさえ、そうしなければなりません。それは、患者が自分の中に見いだせない諸感情を供給するという意味です。感情がないと、真の変化は起こりえないからです。つまり感情がないというのは、患者が変化を恐れ、感情を感じないまま、つまり無意識にとどめたままにしておくことで、状況をコントロールしているのです。 患者について分析者が感じる真の感情や、援助したいという欲求(分析者には、何らかの感情があるにちがいないのです。それを同情、憐み、あるいは関心と呼ぼうが、分析を開始し進めていくための感情があるはずです)は、それがふさわしくて、実際に感じられたときには、明確に、はっきりと、表現される必要があります。それはつまり、自発的で真摯なものです。 非常に混乱した患者は、ときにはそれほど混乱していない患者ですら、正確な推論ができないので、分析者の感情についての患者の推論をそのままにしておくのは、あるいは感情について話し合うことですら、意味がありません。分析者の感情は、そのものとして、生じたときには(いつもではありませんが)、ある程度、実際に、直截に、表現される必要があります。
〜分析者の立場からすると、感情の完全な抑制というのは非現実的で、分析者に非常に大きな負担になります。分析者が自らに課した制限というものもあるにちがいませんが、しかしそれは、完全な抑制とは異なります。さほど強くない感情は、なんら支障なく、間接的に、比較的、容易に表現されるからです。 わたくしは、主に、分析者の感情の、意識的な表出について述べてきました。慎重に考慮されたものであれ、意識されている衝動によるものであれ。「反応する」というのは、それとは違ったことです。きわめて原初的な反応が、悪くはないどころか、非常に役立つ場合もあります。ある患者が怒って、わたくしの顔に向けて、こぶしを振りあげたことがあります。わたくしはひるみましたが、わたくしのこの反応は、それ自体で、患者に現実を思い出させました。すなわち自分は、実際に治療者を傷つけることができるし、また治療者は特定のレベルでだけ、自分が傷つけたい人間なのだということを、即座に思い出したのです。身体的な反応だけでなく、他の反応も、ときおり同様の効果をもつことがありますし、必ずしも過小評価すべきものではありません。それらは、解釈に近い形で、自我に到達できるときもあります。反応の速度、という時間的な要因は別にしてもです。

これほどまで自分の感情を利用するのは、ときに非常な重荷になります。何週間も続けて、患者を憎んだり、突然、怒りの洪水に襲われるのは、きわめて苦痛ですが、それは罪業感を伴うからです。その感情が、患者の投影によるものであっても、患者の実際の行動に由来する意識されている感情であっても、ほとんど差はありません。現実にダメージを受けるのは、そうした感情が無意識のままに留まっているときで、感情が意識化されると、ほとんど危険はありません。感情を認識することだけが、安心感や、直接的、間接的な表現の可能性をもたらすのです。夢はしばしば、無意識的なもの、否認されている患者への愛情や憎しみ、の発見に役立ちます。

 〜患者にとっての利益も、その範囲は限定されます。遅かれ早かれ、彼は、誰も自分の代わりに愛したり、憎んでくれないことを、理解しなければなりません。彼は、一人で、感じなければならないし、そのことに責任を取らなければなりません。しかし、一方では、彼には、豊かな感情をもった人がそこにいて、その人に同一視する機会があります。彼は、自分自身の感情のなさを投影して、その投影に気づき、そして豊かな感情をもった分析者を取り入れるのです。