うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

音だしと、【分析家は患者よりも道徳的にも精神的にも優れているのではないことやそうした優越感が解釈の作業に滲み出てしまうとの考えを分析家は注意しておく必要があると考えているからです。】


 先程、文化会館の音楽練習室で、MTRのドラムとギターの音だしをやってきました。
ドラムの方は、何とかなりそうですが、ギターの音は、場所が変わるとまた一からやらないといけないので、こだわる人には大変ですね。
 少し大きいホールなので、難しいのは覚悟しています。


 テレキャスターは、80年代の物で、開けると色々ありました......。


 テレキャスターでチューニングで困ったことはありませんが、電気系統だけでなくガタが至る所に見られる様で、予算もあるので、細かく見積もりを出して頂け、どうしても直さないといけない箇所をお願いしました。
 根本的にはナットが限界に来ていたようです。
約一ヵ月かかる様ですが、この際きちんと直して頂きます。
 個人的には、テレキャスターは勢いがあって、一番好きです。
弦を丁寧に張っていて良かったです(笑)




 今日は夜勤で、夕方の入浴介助の予定でしたが、入浴介助に慣れて頂こうと、親分が他の職員を連れて、すろーじゃむに行きました。
これからは、寒くなるので職員は暑くても、利用者さん達の身体を冷やさないようにさせて頂くのが、一番やらなければならない事ですね!



 本は、事務仕事をしにうたたねに行った帰りに、またまた(笑)ファミマで読みました。
現場でのあり方、考え方を、何度も確認させて頂いている気になりました。


逆転移のワーキング・スルー」(ここに再掲載)で、ブレマン・ピック(1985)は、分析家が患者に情緒的にオープンであることの必要性を力説しています。それは、「いわゆる真実の追及が、憎しみによって支配されてしまうようになる」偽りの超越性を取らないようにするためです。彼女は“ワーキング・スルー”という用語を、すべての分析的なやりとりの中で進行していると彼女が考えている、患者の投影物を包み込むために分析家が体験していく必要がある過程を描くのに使っています。患者と同じように分析家も、知りたくない考えたくないと望んだり、新たなことや患者が分析家の心にもたらした有害な要素を取り除きたいと望む自分自身の原初的な部分を持っているというのが(この論文やパーソナル・コミュニケーションで述べている)彼女の見解です。分析家の心のこの原初的な部分は、患者の原初的部分や内的対象群に同一化してしまっていて、知ることや理解することを望んでいる分析家の心のより成熟している部分と葛藤しています。分析家が心的な真実を受け入れる自分の能力を働かせ、こうして望まない考えとか取り除いてしまいたい感情を受け入れる同様な能力を伸ばしていくよう患者を援助していく前に、この葛藤は分析家の内において解決されなければなりません。分析家が自分自身の中での葛藤解決の過程を成し遂げないとき、彼は“あたかも”すべてのことをうまく扱える母親のように振る舞います。また、このことは分析家自身の折り合えない部分を患者の中に投影することで成し遂げられましょう。
ブレマン・ピックは、母親(あるいは、分析家)の包み込む機能としてビオンが意味していたこと、さらには、分析家が自分の無意識の空想を患者の無意識の空想との絡み合いからほどいていくこととしてモネー・カイルが意味していたことをさらにきめこまかに描き出そうとしています。モネー・カイルと同じように、この過程はいつも働いており、ときにはたやすくて分析家がそれにほとんど気がつかないほどであるが、あるときには意識的な精神の努力を要するほどに大変に難しいものであると彼女は考えています。しかしながら、彼女はその過程の普遍性にとりわけ注目しています。すべてのコミュニケーションは投影的な要素をもっていて、それに分析家は絶えず影響されているとの事実への注目です。患者が投影しているものと、分析家あるいは彼の内的対象群のある部分とはいつもつながっているのです。
この論文はクライン派分析家たちに波紋を巻き起こしました。いまだ収まっていません。賛成している人たちがいます。しかし、おそらく部分的にはブレマン・ピックの“ワーキング・スルー”という用語の使い方からでしょうが、分析家と患者との間が対称的であるとの考えが誤解を持ち込むと考えている人たちもいます。その考えでは、患者と分析家との互恵性は対称的ではなく、補足的なのです。ですから、分析でのある特別なコンテストでは分析家の退行と回復が必要であるとしても、それは分析家のためではなく患者のためなのです。(ブレマン・ピックが論文で述べている対称性とは違っているのですが)分析家によっては患者と分析家との対称性という考えに賛成しています。分析家は患者よりも道徳的にも精神的にも優れているのではないことやそうした優越感が解釈の作業に滲み出てしまうとの考えを分析家は注意しておく必要があると考えているからです。