うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

除草と、散歩と、ツバメの巣が空にと、【精神分析の先駆けであるヒステリーのカタルシス療法は、一人の天才的な患者と一人の理解にみちた医師の共同の発見でした。】



 気になっていた、すろーじゃむの除草を、短時間でやったら(笑)、大汗をかきました.....。
雑草をブドウの下に置いてきました。唯一の肥料です(笑)。
 その割りに、先端のほうの枝が徒長していましたので、葉が15枚以上ある枝は、摘心して、芽かきもしてきました。




 今日は、金曜日の散歩でしたが、熱中症回避にために、冷房が効いていて、音楽が流れている、展望台で歩きました。
午前も午後も、11,000歩歩きました!合計22,000歩で消費カロリーは602Kcalでした。
 外をこんなに歩いたら、熱中症になってしまいそうですね!



 帰宅前にファミマのツバメの巣を見たら、もう空になっていました。

 本は、早めに出て、ファミマでコーヒーを飲みながら読みましたが(間主観的感性)、アップはまだフェレンツィです。
 フロイトの尋常じゃない強さを教えていただいただけではなく、現場でも、これくらいの覚悟がないと、おそらく、逃げ出してしまうケースも多々あります。
『文明人の心的組織の中の本能的で動物的なものを前にしても尻込みしない、持って強靭な人物が現れねばなりませんでした。』



ラクゼイション原理と新カタルシス (一九三〇)

1 精神分析の先駆けであるヒステリーのカタルシス療法は、一人の天才的な患者と一人の理解にみちた医師の共同の発見でした。その女性患者は、例外的な状態に入ったときに表現される言葉と振る舞いの断片を、彼女の前史に由来する忘れられた刻印と関係づけることに成功するたびに、症状が一つ一つ消失していくことを自らの経験で知りました。ブロイアーの秀でた功績は、方法に対する患者の指示にしたがっただけでなく、浮かび上がってきた記憶の現実性も信じ、他の人びとのように精神病者の幻想によるでっち上げとして最初からしりぞけなかったことです。とは言ってもブロイアーのこの信じる能力には、ごく狭い限界がありました。患者の表現や行動が文化的な枠の範囲内で動いている限りしか、患者に沿っていくことができなかったのです。抑制のない欲動生活の最初の表出が現れるやいなや、ブロイアーは、患者だけでなく、方法の全体を見捨ててしまいました。そのうえ、それ以外では極めて透徹したブロイアーの理論的推論は、純粋に知的なものにできるだけ限定するか、でなければ情緒的ー心的なものすべてを飛び越えて身体的なものに直接関係づけてしまっています。 文明人の心的組織の中の本能的で動物的なものを前にしても尻込みしない、持って強靭な人物が現れねばなりませんでした。おそらく皆様にそのまま人の名を告げるまでもないでしょう。フロイトの経験は、性的な幼児期外傷をすべての神経症症例における必須条件とする仮説まで止めようもなく突き進みました。ただ、いくつかの症例で、患者の申し立てに十分な根拠が立証できなかったとき、患者によって提供された素材は信頼の置けないものだ、だから科学的考察にはふさわしくないと宣言したい誘惑と彼は戦うことになりました。幸運なことに、フロイトの研ぎ澄まされた精神が、葬り去られることになったかもしれない新たな危険から精神分析を救いました。患者が個々に提供するものが嘘で非現実であったとしても、その嘘の心的現実性自体は議論の余地のない事実として残ります。患者の驚くべき虚偽性を感情を交えずヒステリー的空想と説明し、心的現実としていっそうの注目と研究に値すると認めるには、どのような勇気、どのような思考の力と結実が、どれほどは克己が必要であったか想像するのも難しいほどです。 当然ながらこれらの進歩は精神分析技法を色褪せさせるものでした。医者と患者の間の極度に情動的な催眠ー暗示的関係は、いつまでも続く連想実験といったもの、つまりは大部分が知的な過程へとしだいに冷却していきました。医者と患者はいわば精神力を一つにすることによって、連想素材のばらばらの断片から、抑圧された病因を、ちょうど複雑きわまりないクロスワードパズルの空白部を埋めるように再構成しようと試みました。治療の失敗による失望は、弱い人間なら確実に勇気をくじかれたにちがいないのですが、フロイトを促して、たしかにしばらくの間不当になおざりにされていた情動性を分析家と被分析者の関係のなかに再建させました。ただし、本能が知られておらず調整の難しい催眠と暗示による感化という形ではなく、分析関係の中で現れる感情転移と感情的抵抗の徴候に十分注目しそれを利用することによるものでした。