うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

彦坂先生のストレッチ教室と、梅の花と、【死の本能】(治療の行き詰まりと解釈より)



 今日は、月に一回の彦坂先生のストレッチ教室!
みなさん楽しみにされていて、少しずつですが、出来なかったことができてきた様子!
また3月にお願い致します!




春の夜に闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる  凡河内躬恒(『古今集』春上)
 一枝頂きました。
 今日は暖かく、オーバーを着ていると暑くて、脱いでました(笑)。
花粉も大分飛散しているのか?眼も鼻も調子が悪くなってきました。

 色々、思い悩むことが多くなり、京都の人に相談してみたら、沢山勉強しているのは評価するが、それをどう外に伝えて行くかが、これからの課題ではないか?とのことでしたので、勉強しながら、話術?や文章を書く技術のスキルアップを考えて行かなくてはいけません。でも、口ばかりの人間にはなりたくないので(笑)勉強は今まで以上に続けて行きたいと余計に思いました(笑)
 今年は我慢の年とも言われたので、沢山勉強して、来年に向けて準備万端にしておきたいと思っています。
本も大分読ませて頂きましたので、3月になったらまた本を購入したいと思っています。欲しい本があり過ぎて(笑)どれにするか悩んでいます....。


 下記は、夜勤明け、少しほっとしたくてマックで読みながら打ち込んでいた箇所です。
これを読んでもフロイトは終わったと思えるのでしょうか?フロイトがいたこそ、精神分析が成立している気がしてなりませんが.......。

 生の本能と死の本能とのせめぎ合いで人間は生きていると、小さい頃から言葉では表現は出来ていませんでしたが、皮膚感覚で感じていたように思っていますし、フロイトが言うようにタナトスは中々手ごわい.....。
 自分が精神分析を受ける事になったとしたら、強烈な陰性治療反応が出て、精神分析家を自分の内面に絶対に入れないような気がしていますので、自分の事の様に読んでしまいました。


死の本能
 1933年(SE 22:105)にフロイトは再び性愛本能と死の本能の融合について論じ、「融合は崩れることがあり、その融合によって個体の機能は非常に大きな影響を受けることが予想される。しかしこうした考えは非常に新しいものであるので、だれも未だ治療の場で用いてみようとは考えていない」と付け加えた。生の本能と死の本能は一般にさまざまな程度に融合ないしは混合した形で現れるため、どちらの本能も「純粋型」で観察することはできないと彼は論じた。多くの精神分析か家が死の本能の理論に反対し、純粋に思弁的で理論的なものとしてこれを退けようとした。しかしながらフロイト自身がメラニー・クラインを含む人たちとともに、この理論が臨床的にきわめて重要であることを、特にマゾヒズム、無意識的罪悪感、陰性治療反応、治療への抵抗の理解にあたって重要であることを直ちに表明した。 
 自己愛神経症に対する精神分析的なアプローチを論じた際、フロイト(1916)は彼が直面した突破不能の石の壁を強調している。しかしながら1937年に精神分析治療に対する根深い抵抗を論じた際に、フロイトはいずれも死の本能に起因すると彼が考えていた不変と陰性治療反応という抵抗とを、自己愛状態の抵抗に対し明快に関連付けることはしなかった。それでもなお、彼の論述においては、自己愛と自己愛的な引きこもりとは明らかに死の本能に関連している。幼児は自己や自我を発達させ、生と死の本能に由来する不安と衝動に対処する方法を身につけ、対象と関わり、愛と憎しみを表現する方法を学ばねばならない。このような文脈において、生と死の本能の融合と脱融合に関するフロイトの理論は不可欠であるように思える。精神内界の構造の発達は、生と死の本能がさまざまに「結合した」派生物を含むがゆえに、個体は圧倒されなくなるとフロイトは論じた。正常の発達においては対象関係のうちで経験される本能衝動は徐々に認識されて適当な外的対象に(例えば攻撃性、愛は憎しみの破壊性などとして)向けられるのに反して、激しい脱融合がある病理的な状態においては破壊的で自己愛的な構造が発達する傾向にある。この万能感的な構造は、ときには公然と、しかしよりしばしば隠れた形で強力かつ破壊的な影響力をふるう。その破壊的な力は生に向けられ、自己の一部を殺したり攻撃したりすることにより自己と対象との結び付きを破壊する。しかしまたそれはすべての良い対象を脱価値化し、その重要性を無視するという点においても破壊的である。
 私は、精神分析治療に抵抗を示す患者に、自己愛的で万能感的な対象関係が発達し、成人になっても永続していることが、一般的に観察できると思う。彼らはしばしば精神分析に対して、激しくかつ永続的な自己破壊をもって反応する。こうした患者においては破壊衝動は脱融合(結合していない)状態となり、その結果、患者のパーソナリティ全体とすべての対人関係とが破壊衝動に支配されるようになる。この種の患者は、分析のなかではずっと無関心でいることや、巧妙な反復行為をすることや、ときにはあからさまに軽視するといったことで分析家の作業を脱価値化するといういくらか偽装されたやり方だけで、自分たちの感情を表明する。そういったやり方で分析家の作業、理解、満足を破壊し無駄にすることで、彼らは(生と創造性をあらわす)分析家に対する自分の優位を主張するのである。彼らは、頼りになる人物としての分析家に依存することを望む自分の一部分を自分がコントロールし、差し控えることができるという点で自分が優れていると感じる。分析家をも含むあらゆる愛の対象を失うとしてもクールであり、ときにはわき上がる勝利感がもたらされたかのように振る舞うのである。このような患者はときには恥の感情や迫害不安を感じる事はあっても、罪悪感を感じる事はほとんどないからである。この種の患者は、自分の破壊的な衝動とリピドー的な衝動との間の争いに対処するために、愛することができ、依存することができる自己部分を殺し、自分に優越感と自己崇拝の念をもたらしてくれる、自己の破壊的で自己愛的な部分に、ほとんど完全に自らを同一化することによって、対象に対する思いやりと愛とを排除しようとしているように見える。希死念慮や、死や無の状態へと退行したいというような、フロイトが死への一次的な欲動と記述した、一見したところの死の本能の現れと考えることができる臨床症状の分析を通して、私は、自己のもつ破壊性が対象に対してばかりでなく、自己の一部にも向けられている場合が一般に見られることを、より詳細な探索を通して発見した。1971年に、私はこれを「破壊的な自己愛」と呼んで、自己の破壊的な側面が理想化され、自己が服従させられていることを述べた。この自己の破壊的な側面が自己の肯定的で依存的な自己の部分を、罠にはめて捕えられるのであり(Rosenfeld 1971),これが分析家と患者のあらゆるリピドー的な関係に敵対するのである。〜