うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日は、富士山の日!と、『学ぶこと、変わること』と、【フロイトの陰性治療反応の概念では、その病因を罪悪感と処罰への欲求に限定しているが...】


今日は、富士山の日!
あいにくのお天気で見えませんが......。
 昨日、ゆうちゃん、はるくんとガーデン・パークを散歩した時に初めて知りました(笑)
まあ、先日見せて頂いたので、個人的には満足しています(笑)


 年末チャリティー用の額を、長澤さんから依頼されたので、自宅の大家さんである、彦坂木工さんにお願いしに行きました。
 予定表がほぼ毎日埋まっていて、お忙しそうでした!
少しずつ、チャリティーの準備も始まっています。



 辛い事や嫌な事があったら必ず林竹二先生のこの本を読ませて頂いています。


 名古屋に行く予定がなくなったので、自宅でゆっくりさせて頂きました。




第Ⅲ部 自己愛が分析家の作業に及ぼす影響
第5章 陰性治療反応を起こす自己愛的な患者


7)フロイトの陰性治療反応の概念では、その病因を罪悪感と処罰への欲求に限定しているが、スチュアート・アッシュ(Asch 1976)は、NTR理論に対し、次のような病因論を加えることが臨床的に役立つと考えている。①自我理想のある特殊な精神病理に被虐的自我が反応する場合、②抑うつ的になっているエディプス期の対象との共生に退行的に引き込まれることに対する防衛、③母親を去勢してしまったというような早期の前エディプス期的な不安や幻想を含めた、フロイトの無意識的な罪悪感の範疇の拡大。NTRのこれらの三つの病根は、養育対象との早期の経験に結び付いた病理的な取り入れに起因する。自我と超自我の双方の構造的欠陥として分析のなかで明るみに出される。アッシュは、NTRにおける転移性の投影を理解し、分析する必要性についてオリニックスと同じ意見である。すなわち、NTRにおける転移の中核は、分析家の表象に加虐的な超自我を投影することであり、引き続いて分析家を挑発して、処罰的、加虐的な反応に追い込む試みが起こる。患者の被虐性のなかに隠された、分析作業を軽視し続けるという加虐的な要素に対する反応として、逆転移の諸問題が起こる。加虐性はまた、万能感とか、偽装された傲慢な自己愛ろしても表出される。
 オリニック(1964)とアッシュ(1976)とはNTRにおける自己愛的な問題については、ほとんど言及していないにもかかわらず、オリニック(1970:671-72)がニューヨークでの陰性治療反応についてのシンポジウムのまとめとして、「陰性治療反応が自己愛神経症や自己愛的な障害において見られるという合意がなされるならば、超自我発達とどのように関連するのだろうか」と疑問を投げかけているのは興味深い。シンポジウムにおいては、参加者全員の述べる超自我は、一般に成熟した超自我とよばれるものほど構造化されてはおらず、その前駆的なものからなる、太古的、原始的な存在であるとの合意があった。陰性治療反応のあるものは、抑うつ的になったエディプス期の対象との共生に退行的に引き込まれることに対する防衛であるというスチュアート・アッシュの観察は重要であると私は思うが、私の観察ではこのような例はごく限られており、他方、自己愛的な患者では陰性治療反応はきわめて一般的なことである。




8)ここで、陰性治療反応の理論に関するレーウァルドの重要な貢献(Loewald 1970,1972)の詳細を引用しておくことが適当かと思われる。彼は、NTRの精神病理を定式化するうえでの基盤を、フロイトが1923年に論じ、1937年により詳細に発展させた定義におき、フロイトは結局のところNTRを心的生活の経済論における死の本能の優位性に基づいたものと考えたと結論している。罪悪感は、心的には超自我の基盤となる死の本能の部分の働きを表わしている。フロイトのいう意味で、処理し難い無意識的な罪悪感をもつ人は、良くなることに抵抗する。フロイトにより最終的な分析によれば、良くなるということは、死の本能がいつも優位に立っていなければならない患者のなかでの、生—死を、巡る葛藤の放棄を意味する。しばしば自己処罰が強調されるのは、両性具有という万能感およびそれの死の本能との関係を含んだ自己愛的万能感の重要性を示唆するものである。幼児期に破壊的な力を制御することができないで人格の隅々にまで影響を受けてしまうようなエディプス期の早期の障害は陰性治療反応の重要な要因となる。レーウァルドは、早期の母子関係について考察し、NTRにおける破壊的な傾向と自己愛的な防衛の強度とは、何よりも破壊的でリピドー的な衝動と破壊的で創造的な衝動との歪んだ組織化を進める(母子間の)早期の関係にかかっているという。このような原始的な状況においては、罪悪感や良心、さらには処罰欲求といった概念によって解釈することはほとんど効果を上げ得ないだろう。このような早期の心的相互作用に関しては、フロイトは個人の心的な発達の重要性を軽視しているとレーウァルドは感じており、治療の失敗の原因となるしばしば不快で、構造未分化な逆転移の問題を重視していないと考えている。レーウァルドはフロイトの死の本能の理論を採用し、フロイトが陰性治療反応における一つの重要な要因として、死の本能を強調したことの臨床的な価値を認めた数少ない分析家の一人であるレーウァルドがその興味深い論文のなかで、その貢献をさらに生き生きとし、彼の経験を生かしたいと思っている多くの同僚に役立ったはずの詳細な臨床素材を呈示していないのは残念なことである。アッシュとオリニックは、陰性治療反応を示す症例について、彼らが重要でであるとみなす機制をかなり詳細に記述しているが、その経験をさらに詳細に研究したいと望む者たちにとって、非常に有益なものとなるはずの臨床素材を全く呈示していない。アッシュとオリニックの仕事において、彼らの議論が、実際に臨床場面で起こる陰性治療反応に焦点を当てているとは感じられない。むしろ、彼らは治療の行き詰まりに注意に注意を集中しており、一過性に起きる陰性治療反応には目を向けていないように思われる。彼らは陰性治療反応の最中に起こり、症例によってはその徹底操作を困難にする転移/逆転移の問題に集中して居るように思われる。私は、患者と分析家の間に転移逆転移による混乱と共謀があるならば、陰性治療反応が治療の行き詰まりの原因になるという点ではアッシュとオリニックの見解に賛成する。しかし私は、患者と分析家の間の共謀につながる転移抵抗は、陰性治療反応と呼ばれるべきではないというロバート・ラングス(Langs 1976)の考えに賛成である。陰性治療反応の病理に対するわれわれの理解が、明らかに患者よりも治療者の病理と関係がある転移/逆転移の反応と混同されるならば、非常な混乱が生じることになるだろう。




9)リメンターニ(Limentani 1981)も、彼の症例を通して似たような結論に達した。しかし、私の経験では、一種の衝撃として作用し、患者が肯定的な進歩をするのを手助けするような真の陰性治療反応は、どちらかというと稀である。