うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

音楽夜会と、【まったく苦痛なしに済ませることはもちろん精神分析の本分ではありません。それどころか、苦しみに耐えるようになることが精神分析の本分です。】


 今日の夜勤も素敵な夜勤でした!
まさくんはかっこよくて、ロカビリーが聞こえて来そうですね!

 利恵さんは、本当にノリがいいです!

 いのうえっちは、ピーピー鳴るチキンのおもちゃを選択(笑)楽しそうにピーピーやっていました!


 おっちゃんの怪しいアフリカのリズムで、みなさんノリノリ! 


 最後は、施設と地域が違っても、距離が近づきます。ちょっと近すぎですが(笑)
音楽って、本当に良いですね! 自分のアイデンティティは音楽だと思っています。





 今日は、喘息の薬を頂きに午前中は病院に行きましたが、血液検査でアレルギー反応が出たとの事で、鼻に何やら突っ込まれて、検査したら大丈夫とのことでしたが、念のため、イネ科と犬猫のアレルギー検査もと、毎月行っている採血で、検査項目が増え、支払金額も倍くらいになり、ビックリしました(笑)雨なので、歩いて行って、歩いて帰りましたが、蒸し暑くてなんか嫌な感じでした。故郷である大阪で大きな地震があったせいもありますね....。
 帰りにファミマで昼食を摂りながら本を読みました。


 皆さん、きちんとクールダウンされてから就寝されました。最後の洗濯も乾燥してたたみ、ちょっと一息です。


 下記は(長い抜粋の部分)、自分が口酸っぱく言う、けじめのない人には、きちんとした支援が出来ない!と、自分の事を棚に上げながら(笑)言っていることだと思いました。

『思いやりとは感情移入の力』には、ガツンとやられた感がありました。感情移入のやり方が大事なのですね。いつも思い出すウィニコットの言う、ほどよい母親の行為とお思われます。


 下記の2つは、福祉の現場でもそうかも知れません。腫れものに触るような支援をしているようでは、何も始まらないし、何も起こりません。待つだけで、その待っているものが来ないと死んでしまう、先日アップさせて頂いた原始生物のようですね。
利用者さんばかりに自律性を求めながら自分は全然自律できていない方の方が多いかもしれませんね........。そんなことばかりしていたら、無意識に切望する、私たちの影響から逃れる機会を作り出してしまうのですね.......。
『まったく苦痛なしに済ませることはもちろん精神分析の本分ではありません。それどころか、苦しみに耐えるようになることが精神分析の本分です。』

『とはいえ、思いやりのないやみくもな強要は、患者が無意識的に切望する、私たちの影響から逃れる機会を作り出してしまうでしょう。』


 夜勤に戻ります!





 〜こうした個人方程式のまだ未解決に残された部分に説明を与えようとするならば、そしてすでに他の人から分析を受けた大勢の生徒や患者をみる立場にあるとすれば、とりわけ私のように自分自身がかつて犯した過ちの結果と格闘しなければならなかったとすれば、僭越ながらこれらの差異と誤りのおよそについて手短に判断を述べる権利があるでしょう。何かをいつどのように被分析者に伝えるか、提供された素材を十分説明して結論をそこから引き出してもよいのはいつか、その伝達は必要に応じどのような形を装うわねばならないのか、患者の予期せぬ無用な苦しみになるのはいつかなど、こうした問題は何より心理学的な思いやりの問題であるという確信に私は達しました。お分かりの通り、「思いやり」という言葉は、魅力的で簡潔な定義の中にあいまいさをもたらしてしまいます。そもそも思いやりとは何でしょうか。この問いへの答えは難しくありません。思いやりとは感情移入の力です。多くの人の心の解剖から、と言ってもなにより自分自身の解剖からもたらされた私たちの知見の助けを借りることで、そうかもしれない、あるいはそうらしいが患者自身にはまだ思いもよらない患者の連想をありありと思い浮かべることができ、となれば私たちは患者のように抵抗と格闘する必要がないので、患者の抑えられた思考だけでなく無意識の傾向まで推察することができます。同時に私たちは抵抗の強さをいつも覚悟していますので、報告がどこまで現実なのか、そしてまた現実がどんな姿を装っているのかを判定するのは難しくないでしょう。この感情移入は、患者の抵抗を不必要にあるいは不適切な時に刺激することを防いでくれるでしょう。まったく苦痛なしに済ませることはもちろん精神分析の本分ではありません。それどころか、苦しみに耐えるようになることが精神分析の本分です。とはいえ、思いやりのないやみくもな強要は、患者が無意識的に切望する、私たちの影響から逃れる機会を作り出してしまうでしょう。