うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ギターの弦を張り替えなければ........と、【もう一度強調しておかねばなりませんが、役立つのは真の感情態度だけです。見せ掛けだけのポーズは、明敏な患者によって苦もなく見破られてしまいます。】


 よくギターに触るようになったので、もう弦を張り替えないと、ザラザラになっていて、全然滑りません(笑)
今日は、無理そう(笑)初めて使う弦が続いていますが、それもささやかな楽しみの一つです。


 昨夜、アップする直前までは覚えていたのですが(笑)なんやかんやしていたら、upするのを忘れていました。今気が付きました(笑)
ちょこっと書き直してのupです。


 昨日も、事務仕事に追われて、今日も夜勤ですが、事務仕事やっています(笑)施設関係は主任さんがやって下さっているので、以前よりは、仕事量が減ったはずなのに、なんだか仕事が湧いて出て来ます(笑)


 取り敢えず忘れる前に、早々とアップしておきます(笑)10日分くらいの貯金があるので(笑)



 下記は、そのまま見て頂いた方がいいと思われますので、何もコメントしません。


ある無教養な、まったく無知に思われる患者が私の説明に異議を申し立て、それは私が考えるまでもなく反射的に退けるようなものだったのですが、よく考えてみると私でなく患者の方が正しいことが分かったこと、それどころか異議によって彼が状況全般のずっと深い把握を私に与えてくれたことが以前ありました。したがって分析家の謙虚さは丸暗記のポーズではなく、私たちの知の限界の認識を表すものでなければなりません。ついでに気づかされることですが、このことを支点に精神分析がてことなって、患者に対する従来の医師の態度に根本的変革がもたらされるかもしれません。今まで全知全能の医師が通常患者に向けてきた横柄さを、私たちの感情移入原則と較べてみてください。
 もちろん私は分析家が過度に謙虚であってはいけないと思います。分析家には、たいていの症例では経験に基づいた分析家の解釈が真実であると遅かれ早かれ分かり、患者は蓄積されていく証拠の前に膝を屈すると期待する資格が十分あります。しかしいずれにしても患者の決断が下されるまで辛抱強く待たねばなりません。医師側にあせりがあれば患者から時間とお金を奪い、医師にはしなくてもよかったはずの大量の仕事を課します。
 「分析技法の柔軟性」というある患者の発案による表現を私は受け入れます。伸縮性のある紐のように患者の傾向に譲歩しなければなりませんが、いずれかの立場に根拠のないことが完全に証明されない限り、自らの見解に沿った道を放棄することはありません。以前に犯した過ちを率直に認めることを決して恥じてはなりません。分析とは、医師の名声と無 謬 性をなにより維持しておかねばならない暗示法ではないことを忘れてはなりません。分析も要求する唯一のものは、医師の誠実さと正直さへの信頼であり、過ちを率直に認めることでこれに害がおよぶことはありません。 分析的態度が医師に要求するのは、自身の自己愛を厳しく統制するだけでなく、あらゆる種類の感情反応を鋭敏に監視することです。あまりにも高い「反感」度を分析治療の実施を控えるべき指標とするのが以前の見方とすれば、今私たちは、より深い関係の理解に基づいてそうした否定的徴候を最初から排除し、分析を受けた分析家に病的嫌悪に屈服しないだけの自己理解と自己統制の強さを求めねばなりません。その「反感衝動」は実施たいてい前部構造であって、その背後にはまったく別の特性が隠されています。そのような場合にまともに対応すると、患者に騙されることになります。追い払われることが、耐え難い振る舞いの無意識的目的であることがよくあります。この事柄への知によって私たちは、きわめて不愉快な人物、あるいは威張って取りつくしまもない人物を、治療を要する患者とみなすことが可能になり、そのような人として、患者への共感を断念せずにおれます。キリスト者にも勝るこの謙虚さを習得することは、精神分析の実践のもっとも難しい課題に属します。しかしそれを実現すれば、最も絶望的な症例においても修正の手を加えることが可能になります。もう一度強調しておかねばなりませんが、役立つのは真の感情態度だけです。見せ掛けだけのポーズは、明敏な患者によって苦もなく見破られてしまいます。