今日は、遅番でしたが、少しだけ早めに行き、昨日、まり子さんと利恵さんと約束したので、どこに食べに行こうかと話し合いました。
田原駅前に新しくできた、ららグランに決定しましたが、行ってみたら案外高かったので、まり子さんがめっくんハウスのかつさとにいくとのことで、かつさとに向かいました。着いたら11時35分だったので、お客さんで一杯でした。テイクアウトにしてもらいましたが、運よく席が空いたので、お店で頂く事にしました。
ショートの方の入りの時間が違ったので、昼食は2班に分かれました。
昼食後は、うたたねに戻り、女子だけで池ノ原にお薄を頂きに行きました。
また、うたたねに戻り、かおちゃんとジュースを買いに行ったら、場所を把握されているので、走って欲しい物の所に行かれましたが、お菓子の方は、今日は念入りに見ておられました。
今日は、本が読めていません(笑)明日は夜勤なので、ゆっくり寝させて頂こうかと思いましたが、予約の電話を5時に起きてしないといけませんでした(笑)
今日のアップは、また、元の位置に戻ったので、雰囲気が違う感じですね。
次回からは、脈絡が出来て来ると思われるので、我慢して読んで頂ければと思います。
もうすぐ読み終えるので、『臨床日記』を買ってもらおうかと思案中です。読みかけの本も2冊ありますが(笑)、この機会に、フェレンツィをもう一冊読みたいと思っています。
下記の様なことが本当にできるのなら、昨日アップさせて頂いたような事件は、未然に防げそうですね。
『しかし、実践的観点からみれば、平均的な才能しかない医師や学者の手にも分析が人間研究のための上質の道具を徐々に提案していることは、明白な進歩です。これは外科学と似ています。』
精神分析技法の柔軟性 (一九二八) 〜フロイトが精神分析技法への注意を刊行して以来、私たちは方法論的な心の研究を始める上での手がかりを持っています。師に教えに従う労苦を惜しまない者であれば誰でも、たとえ心理学的天才でなくとも、健康なものであれ病的なものであれ他者の心的生活の思いもよらぬ深みにまで入り込むことができます。日常生活における失錯行為、夢、とりわけ自由連想の分析が、隣人について少なからず知ることを可能にしてくれるでしょう。そうした理解は以前であれば例外的な病のみに可能でした。奇跡的なものへの人間の偏愛は、ある種の職人芸における人間知の術がこのように変えられることを、腹立たしく見つめるでしょう。とりわけ芸術家や作家は、こうしたことを自分たちの領域へのある種の侵害とみなし、最初の興味が薄れたあとは、面白くもない機械的な活動形態として精神分析を遠ざけがちのようです。この反感は驚くに値しませんでした。科学は確かにどこまでも進む脱錯覚であり、神秘的で目を引く説明のかわりに、その単調さがすぐに退屈を、その揺るがぬ必然性が不快を呼び覚ます、いつでもどこでも同じで逃れようのない法則で置き換えるからです。もっとも部分的に心の慰めになるのは、あらゆる職人芸でそうであるように、当然ここにも私たちが進歩と新たな視野を期待するような芸術家的例外人が常にあることでしょう。 しかし、実践的観点からみれば、平均的な才能しかない医師や学者の手にも分析が人間研究のための上質の道具を徐々に提案していることは、明白な進歩です。これは外科学と似ています。麻酔法や防腐法の発見以前には、外傷医の「医術」を施すのはごく限られた人の特権でした。そうした人のみが「角谷かにだった安全における楽々と」働けましたけどおそらく、今日にも外科的技術が達人がいるでしょうが、人命を救うことさえ多い有効な活動を何千人もの平均的医師がみな繰り広げることができるようになったのはこの進歩のおかげです。 もちろん心の分析の外部においても心理学的技術について語られてきましたが、そこでは心理学実験室の測定方法のことと理解されてきました。この種の「心理技法」も今日流布しており、単純な個々の実践課題のためにはそれでも十分かもしれません。分析ではずっと高次のもの、つまり自分状況全体の場所、力動、経済の把握が問題であり、それを実験室のすばらしい装置なしに、しかし絶えず高まっていく信頼性への希求と、なにより比べるもののない高い能力でもって行います。〜