うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

サムピックと、【一方そうでない人は、教育にそこまで完全な圧倒されることは決してなく、教育の重圧が(思春期は)終われば、一度捨てた幼児性愛の対象や目標に立ち戻らず、それらで心理−全般正常性の全般条件を満たすことができるでしょう。】


 苦手意識が強かった、サムピックですが、下記の二本の動画を見ていたら、自由にやったらええやん(笑)と吹っ切れたら、サムピックで弾く事が急にできました(笑)不思議です.......。しかも、他の指との音量を合わせながら優しくも弾けました。
 Bukka White 先生と、 Fred McDowell先生のお蔭です!お二方とも本当に自由です!叩き系のギタリスト全盛期的な感のある今、ですが(笑)大昔から、叩き系はあったんですよね(笑)
Two Songs by Bukka White
https://youtu.be/Pkhj9z14TBo

Fred McDowell pt 1
https://youtu.be/ZMr_JcW1qAs


 若かりし頃、本だけで練習していた、ステファン・グロスマン先生の練習曲を一曲だけ、覚えていて、今でいうギャロッピングを使った、カントリー・ブルース?ラグタイム・ブルース?を、サムピックでやってみたら、良い感じでした(笑)癖になりそうですね(笑)
 

 と言っていますが、今日は一日事務仕事の日の予定が、急に担当者会議に出てくれとか、夕方の入浴介助もありましたので、給与計算だけは、さっさと済ませました。


 本は、歯医者さんの待ち時間で読みました。下記に出て来る、フロイトのたとえ、「一階と二階」を調べてみれば、もっと分かり易いかもしれませんね。

 フェレンツィを読み始めてから、教育という意味が、おそらく日本では間違っているように感じてしまいました。



強制空想について――連想技法における積極性 (一九二四) つまり、患者の抵抗を剥ぎ取ることが分析家の中心課題だということです。この原則には、抵抗が私たちの連想基本原則を用いて治療の目論見を挫折させようとする場合にも例外を認めることができません。

 〜今まで述べた例によって、私だけ「強制空想」を用いることができた経緯について十分説明したと思います。次の課題は、この技法的手法の適用と考えうる禁忌について何がしか述べることでしょう。「積極的」介入が一般にそうであるように、根本的空想課題が妥当なのは、ほとんどいつも分離期、つまり治療の終わり近くに限られます。もちろんそのような分離は、辛い「欲求不満」なくしては、つまり医師の積極性なくしては生じ得ないことを付け加えておかねばなりません。この技法の使用に適する時期についてはこれで十分でしょう。どのような空想を患者に勧めるべきかについては一般的に言えません。それは分析素材全体から自ずと生じなければなりません。分析技術の進歩には私たちの分析的知識は増加を待たねばならないというフロイトの定理はここでも妥当です。つまりそれは患者の連想の自発性に対していずれにせよ大胆なこうした介入をあえてする前に、「非積極的な」分析と非強制的な空想の豊かな経験が必要です。誤った方向に試みられた空想暗示は(熟練者にもときに起こるように)、短縮しようとしていた治療を不必要に長引かせてしまうことになりかねません。 患者の無意味的空想生活に関するこの研究のおかげで、私は個々の空想内容の発生の仕方を洞察できただけでなく――副作用として――空想生活全般の活発さないし鈍さの原因を見て取れることができました。なかでも、空想生活の活発さが、私たちが幼児期の性的外傷と呼ぶような幼児体験にしばしば直接関係することを発見しました。ここで述べたような仕方で空想活動をいわば人工的に呼び覚まし促進しなければならなかった患者の大半が、幼児期のごく初期から子どものすることなすことがとても厳しく統制され、いわゆる子どもの悪戯などはじめから妨げられ、いわば十分開花する前に停めさせられるような社会階級あるいは家族に出身であり、そのような場合子どもは性的なことを日ごろ観察する機会も、ましてや経験する機会も欠いていました。つまり彼らは、いわばよくしつけられすぎた子どもでもあり、その幼児性愛的な欲動の動きは現実のなかに定着する機会をまったく持たなかったのです。しかし、こうした一個の定着、つまり一片の体験は、後の空想の解放とそれに関した身体的性能力の前提条件のように思われます。他方、よくしつけられすぎた人の幼児的空想は、まだ意識できた上がる前に「原抑圧」の手に落ちてしまいます。つまり別の言葉で言えば、ある程度の幼児期の性的体験、つまりいくらかの「性的外傷」は害でないばかりか、後の正常性、とりわけ正常な空想能力を促進さえするのです。この確認はついでながら――これはしつけの結果についてのフロイトのたとえ、「一階と二階」に完全に一致します――幼児期外傷の控えめな評価に導きます。当初幼児期外傷はヒステリーの原因だと言われていましたが、後に不必要に自身がその意味の大半を剥ぎ取り、現実の幼児期経験ではなく、無意識でできた空想の中に病因を見出だしました。しかし今私たちは、ある程度の子ども時代の実際の体験が、異常で発達放出への何らかの防衛も提供していると考えます。もちろん、この「体験」は一定の最大限度を越えてはなりません。あまりに多い、あまりに早い、あまりに強いものは結果は、それに見合った抑圧と、それをよって制限されることによる空想欠如です。 自我発達の観点から考えれば、よくしつけられすぎた人の性的空想の欠如(および心理的な性的不能傾向)は、実際に何も体験していない子どもが(つねに反−性的な)教育的理想に絶望的にとりつかれていることに起源を求めることができます。一方そうでない人は、教育にそこまで完全な圧倒されることは決してなく、教育の重圧が(思春期は)終われば、一度捨てた幼児性愛の対象や目標に立ち戻らず、それらで心理−全般正常性の全般条件を満たすことができるでしょう。