うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ロバート・ジョンソンの楽譜と、【つまり「積極的」分析家はカタルシスがその課題を終える場所からその本来を仕事を始めるのです。】


 若い時分に、レコードコピーをしていて、挫折してしまった、ロバート・ジョンソンの楽譜を初めて買ってみました。
自分達が若い時には、こんな素晴らしいものがなく、本当に真剣にレコードに向かっていました。耳で聞いた音はこんな感じじゃなかったのにと、音感の悪さを露呈してしまいましたが(笑)まあ、頑張っただけのことはあり、近いものも結構あって、ほっとしました(笑)
 楽譜があるから弾ける代物でもありませんが、自分のライフワークの一つは、ロバート・ジョンソンのカンコピなので、生きているうちにはきっと終わりませんが、やってみようと思っています。






 今日は、中ぬけ勤務で、早番と遅番をやらせて頂きました。
本は、早番が終わって帰宅する前に読みました。その箇所は凄く役に立つ箇所で、そこのアップとも思いましたが、順番があってのそこかな?と思ったので順次アップして行きます。

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積極性によって抵抗を刺激すると、停滞させて陥った分析の心地よいが無気力な平穏状態が少なからず妨げられます。暗示が心地よくないものしか約束しないとすれば、健康を約束する従来の医師の暗示との根本的差異を否定できません。もはや同じ名前を冠しておくことはできません。「積極性」と、カタルシス療法の違いもこれに劣らず大きなものです。カタルシスは、追憶を呼び覚ますことを課題とし、記憶の喚起によって、締め付けられた情動の除反応に達します。積極技法は特定の行動、制止、心的態度、あるいは情動放出を患者に提案し、無意識や記憶素材へ二次的に接近可能になる事を期待します。いずれにせよ患者に提案される活動は目的のための手段に過ぎないがすが、カタルシスの情動放出は自己目的とみなされます。つまり「積極的」分析家はカタルシスがその課題を終える場所からその本来を仕事を始めるのです。 しかし、先程触れた治療方法や修正と、積極技法との間の相違点(部分的には直接の対立)を強調するからといって、私の提案を無批判に使用するとユングアドラーやビィェールらがとった方向へ容易に分析を歪曲させたり、カタルシス療法へ退行させたりする可能性があることを決して否定するわけではありません。これもまた、この技法的補助手段が、正規の分析を習熟したときに初めて細心の注意をもって用いられるべきである理由です。